2012年3月18日日曜日

ローマ熱

ここではイーディス・ウォートン(1862-1937)の短編『ローマ熱』(1934年の作品)を訳しています。
ふたりの中年女性が話しているだけの、動きの少ない地味な展開ですが、徐々に明かされていくふたりの女性の心理と、あっと驚くような結末は、この作品を、アメリカの短編のアンソロジーを選ぶとかならず入っているといっていいほど有名なものにしています。
タイトルにもなっている「ローマ熱」とは、マラリアのこと。湿地の多いローマでは、蚊が媒介するマラリアが多く、ローマ帝国崩壊の理由の一つであったとも言われています。もちろんこのタイトルには、このマラリアのことと、ローマで出た「熱」がかけてあり、さらにこの熱も、単に病気という意味ばかりでなく……。
原文は

I

 昼食を終えたアメリカ人女性客がふたり、ともに盛りは過ぎているものの、身なりのよい中年女性がつれだって席を立ち、ローマを見おろす高台にあるレストランのテラスを横切って、手すりに身をあずけると、まずは互いに顔を見合わせてから、足下に広がるパラティーノ丘やフォロ・ロマーノの崇高な姿に眼をやり、ふたりともそっくりのとりとめのない微笑を浮かべて、すばらしいわ、と言うように、うなずいてみせた。

 手すりにもたれるふたりの耳に、広場へおりてゆく階段から、若い娘らしい明るい声が聞こえてきた。
「いいわよ、行っちゃいましょうよ」
声が向けられている先は、ふたりではなく、上からは見えない相手だ。「お嬢様がたには編み物でもあてがっておけば十分よ」
同じ年頃の若々しい笑い声がそれに応じた。「あら、バブス、編み物なんてしないと思うわ」
「ものの喩えよ」最初の声が答える。「どのみち、わたしたちが親にさせてあげられることなんて、それぐらいしかないじゃない?」階段の角を曲がった娘たちの声は、そのまま聞こえなくなった。

 ふたりの婦人はいささか困惑の笑みを浮かべてもういちど顔を見合わせ、小柄で色の白い女性のほうは、微かに赤くなった顔を横に振った。

「バーバラったら(※バブスはバーバラの愛称)」階段の向こうに消えた笑い声を、聞こえないとわかっていても、たしなめずにはいられないように、そうつぶやく。

 もうひとりのふっくらとして血色の良い、こぶりで意志の強そうな鼻と、くっきりした黒い眉の女性は明るく笑った。「あの子たちったら、母親のことをそんなふうに思ってるのよ」

 それを聞いた相手は、とんでもない、と手を振った。「なにもわたしたちがそうだ、って言っているのじゃなくてよ。そのことはわかってやらなくては。ただ、当節のおおかたの人は、"母親"というものをそんなふうに見ているってだけ。ね?」いささかうしろめたそうな顔で、品のいい黒いハンドバッグから、細い編み棒が二本刺さった深紅の絹糸の玉を取りだした。「なぜそうなったのかわからないけれど」とつぶやくように言う。「世の中が新しくなったせいで、わたしたち、時間をもてあましてしまうわよね。ときどきわたし、ただ眺めているだけなのにうんざりしてしまう――たとえこんな景色でも」そうして、足下に拡がる目を奪うような風景を手で示した。

 浅黒い肌の女性がもう一度声をあげて笑い、それからまたふたりは、春の陽に輝くローマの空をそのまま映したような、ぼんやりと穏やかな表情を浮かべて、それぞれの物思いにふけりながら、黙ったまま景色を眺めていた。昼食の時間帯はずいぶん前に過ぎており、広いテラスの一隅にはただふたりがいるだけだった。店の反対側で市街地の景観を名残惜しげに眺めていた二、三のグループも、ガイドブックをまとめ、チップを取りだそうとあちこち小銭を探している。最後のグループが出ていくと、風の吹き抜ける高いテラスに残ったのはふたりだけになった。

「どうかしら、わたしたちがここにこのままいちゃいけない、って理由はないわよね」そう言ったのはミセス・スレイド、血色が良く、よく動く眉のもちぬしである。手近にあった柳の枝で編んだ肘掛け椅子をふたつ、手すりに直角になる位置まで押してくると、ひとつに腰を下ろし、パラティーノ丘に目をやった。「なんのかんの言っても、いまだにここぐらいきれいな景色は、世界中のどこへ行っても見たことがないわね」

「これからさきもずっとそうよ、わたしにとっては」と同意したミセス・アンズレイだったが、その「わたし」という言葉にはこころもち力が入っているようで、ミセス・スレイドもそのことに気がついたのだが、たぶんたいした意味などない、昔ふうの手紙を書く人が、いきあたりばったりにアンダーラインを引くようなものよ、と考えた。

――グレイス・アンズレイはいつだって昔ふうのひとだった。
ミセス・スレイドは思った。昔を懐かしみながら笑顔になって、声に出してつけくわえた。「ふたりとも、ずいぶん長いこと眺めてきた景色だわよね。ここで初めて会ったとき、わたしたち、いまのうちの子より若かったのよ。憶えてるでしょ?」

「ええ、もちろん憶えているわ、わたしは」ミセス・アンズレイのつぶやく「わたし」には、やはりそれとわかるほどの力がこもっている。すぐに「給仕頭がこちらを見ていてよ」と言い添えた。どうやらミセス・アンズレイのほうは、連れほど世間での自分の権利を揺るぎのないものとは考えていないようだった。

「見なくてもすむようにしてあげましょ」ミセス・スレイドはそう言うと、ミセス・アンズレイのものと同様、目立たないように金のかかったハンドバッグに手を伸ばした。給仕頭に合図して、わたしたちは昔からローマがとっても好きなの、ここの景色を見ながら、午後のあいだずっとここにいちゃいけないかしら、もちろん、あなたがたのお仕事のお邪魔にならなければの話ですけれど、と言った。給仕頭はミセス・スレイドが渡した心付けに頭を下げた。お気のすむまでいらっしゃっていただいてかまいません、引き続きディナー・タイムまで私どものところで過ごしていただければ、なおのこと幸いに存じます、ご承知とは思いますが今宵は満月でございますし……。

 ミセス・スレイドは黒い眉をひそめ、あたかも月の話など場違い、好ましからざる話題であるかのような表情になった。けれども給仕頭が去ると、曇った顔にふたたび笑みが浮かぶ。「ねえ、そうしましょうか。それ以上の過ごし方はないかもしれないわね。どうなるものやら見当もつかないでしょう、あの子たちがいつ帰ってくるのか。あなた、あの子たちがどこへ行ってるかわかって? わたしには見当もつかないわ」

 ミセス・アンズレイは、また少し頬を赤らめた。「若いイタリア人の飛行士の方、ほら、大使館でお会いしたでしょ、その方たちが、タルキニアまで飛んでお茶を飲みましょう、ってあの子たちを誘っていたわ。月明かりのなかを飛んで帰るために、向こうで月の出を待つのじゃないかしら」

「月明かりですって? 月明かりねえ。まだそんなものが効果があるとはね。あの子たちも昔のわたしたちみたいにおセンチだと思う?」

「最近思うようになったの。あの子たちのことなんてちっともわかりはしないんだわ、って」ミセス・アンズレイは言った。「それに、もしかしたら、わたしたちだってお互いのこと、どれほどもわかってなかったのかもしれないわね」

「そうね、もしかしたらそうだったのかも」

 ミセス・アンズレイが友人の顔を上目遣いにちらりと見た。「アライダ、あなたがセンチメンタルだなんて、わたし、思ったことなかったわ」

「そうね、たぶん、そうじゃなかったわね」過去を振り返るミセス・スレイドの唇は、固く引き結ばれていた。しばらくのあいだ、少女のころから仲の良かったふたりの女性はそれぞれに、自分が相手のことなどほとんど知ってはいないのだ、と考えていた。もちろんそれぞれが、その気になれば相手はこういう人間だとレッテルを貼ることもできたのだが。

たとえばデルフィン・スレイドの妻であるミセス・スレイドの側は、ホレイス・アンズレイ夫人のことをこのように思い、また問われればそう答えてもきた。
そうね、彼女は二十五年前は、ほんとうにきれいだったのよ――そんなふうに思えないだろうけれど、ほんと、そうだったのよ。そりゃもちろん、いまだってステキだし、品はあるけれど……。ええ、若い頃の彼女はちょっと見たことがないくらいの美人だった。娘のバーバラなんて比べものにならないぐらい。たしかにバブスのほうが、いまふうの尺度でいったら、もっとパッと人を引きつけるような、若い人たちの言葉で言ったらシャープなところがあるけれど。バブスがそうなったのは、ちょっとおもしろいわね、だって両親とも人畜無害なタイプなんだもの。そうよ、ホレイス・アンズレイったら、ほんと、奥さんと好一対だったわね。古き良きニューヨークの遺物として博物館行きになりそうな人だった。二枚目で文句のつけよ� ��がない、模範的人物ってところ。

ミセス・スレイドとミセス・アンズレイは、実際上も、また比喩的な意味でも、長いあいだ向かい合って暮らしていた。東73番街20番地の客間のカーテンが新しくなると、通りを隔てた23番地は、かならずそれに気がついた。そればかりではない、人の出入りも買い物も、旅行も、記念日も、病気でさえも、非の打ち所のない夫妻の単調な物語のあらゆる面にいたるまで。どんな些細なことがらも、ミセス・スレイドの目を逃れることはできなかった。


なぜシロのimportansの戦いでしたか?

だが、さしものミセス・スレイドも、夫がウォール街で大成功を収めたころには、見張りにもうんざりしはじめ、アッパー・パーク・アヴェニューに屋敷を構えるときは、こんなふうに考えるようになっていた。
――たまにはもぐり酒場(※禁酒法時代の)の向かいにでも住んでみたいものだわ。そこだったら少なくとも警察の手入れが見られるかもしれないんだもの。
グレイスの家が警察に踏み込まれでもしたら、さぞかしおもしろい見物でしょうね、と、引っ越す前のことだったのだが、ある女性との昼食の席で、ミセス・スレイドはつい口にしてしまった。この冗談は好評を博し、方々で人の口にのぼることになったので、ミセス・スレイドは通りを渡って相手の耳に入ったらどうしよう、と、いささか心配になったほどだった。もちろん耳に入ってほしくはない気持ちは強かったが、一方で、まあそれでもかまわない、とも思っていた。当節、品位なんてものは、すっかりお安くなっているんだもの、ご立派な人たちをちょっとくらい笑っても、何の差し障りがあるもんですか。

 数年後、何箇月も日を置かないうちに、ふたりの女性はともに夫を喪った。その場にふさわしい花輪やお悔やみの言葉などを相互に贈り、喪に服しているあいだしばらくは、旧交も復活した。それからさらに数年の歳月を経て、ローマの同じホテルで、ともに人目を引く娘というお荷物を連れて、顔を合わせたのだった。似たような来し方をたどってきたからこそ、こうしてまためぐりあえたのよ、と半ば冗談めかして笑い合い、たがいに、昔の時代なら自分の娘と「つきあう」なんて、疲れることだったんでしょうけれど、きょうびではそんなことでもしていないと、毎日の張りさえなってしまうのよね、と、正直なところを打ちあけ合った。

 たしかに、とミセス・スレイドは考える。
――かわいそうなグレイスよりもわたしのほうが、無聊をかこっているのだわ。
デルフィン・スレイドの妻であることと、未亡人であることのあいだには甚だしい差があった。ずっと自分のことを(夫婦であることの一種のプライドから)、社交上の資質という面では、自分は決して夫に引けを取るものではない、夫婦としてまれにみるほどの評価を得たのも、自分の貢献があればこそ、と考えてきたのだ。ところが夫を亡くしてみると、もはや地位の下落はいかんともしがたい。高名な企業顧問弁護士、国際的な訴訟案件をひとつやふたつ、つねに抱えているようなやり手の弁護士の妻として、心躍る、明日の予想もつかないような日々を過ごしてきた。外国からやってきた一流の弁護士を、急にもてなすことになったり、法律問題でロンドンやパリ、ローマに急行しなければならなくなったり、そうした諸外国では� ��相互に接待したりされたりが、派手に繰り広げられもしたのだった。そんなとき背後で聞こえてくる声は、ことのほかうれしいものだった。「あら、あのいいお召しの、目のきれいな、あかぬけた人がミセス・スレイド? スレイドさんの奥さんなの? ほんとう? 有名人の奥さんって、パッとしない人が多いのにねえ」

 まったく、そんな歳月の後にスレイドの未亡人として過ごすのは、退屈きわまることだった。またとない夫に応えられるように、能力のすべてを費やしてきたのだ。いまや果たさなければならない任務は、娘ひとりの世話というだけ。夫の資質を十分受け継いでいるかに見えた息子も、幼いうちに急死した。その耐え難い悲しみも、夫がいたからこそ、助け、助けられるうち、なんとか乗り越えてこれたのだ。いまやその夫も亡くなり、ひとり息子のことを思うと、身を切られるよりつらい。もはや娘の母親であるという以外に、やるべきことは何もない。おまけにうちのジェニーときたら、よくできた娘だから、ことさらに母親らしくでしゃばる必要もないのだわ。

――これがバブス・アンズレイだったら、わたしだってこんなにのんびり構えてなんかいられないでしょうね。
ミセス・スレイドはときどき、羨望の念も交えながら、そんなことを思う。ジェニーときたら、光り輝くようなバブスにくらべてさえ、なお若いのに、しかも顔立ちだってたいそう整っているのに、奇妙な話だけれど、その若さも美しさも、どんな危険も引き起こしそうにないのだ。まったく不思議なこと――そうしてミセス・スレイドにしてみれば、退屈の原因ともなった。ジェニーが身分不相応の相手と恋に落ちてくれないかしら、と思うことさえある。それなら、ジェニーを監視し、そこから救い出すために、策を弄することもできるのに。ところが実際は、ジェニーの方が母親を監視し、すきま風が当たらないよう気を配り、強壮剤を飲み忘れていないかどうか確かめている……。

 一方、ミセス・アンズレイは友人ほど明瞭に意見を口にするタイプではなかったし、胸の内でミセス・スレイドのことを、じっくりと考えたこともなく、その印象も、ごくぼんやりとした淡いものでしかなかった。
――アライダ・スレイドはなかなか才気煥発なひとだった。自分で思っているほどではないけれど。
かいつまんでいうと、そんなところだろうか。とはいえ、彼女を知らない人に対しては、こう説明を加えることだろう。ミセス・スレイドは、若いころはたいそう溌剌としていらっしゃいましたわ、と。もちろんお嬢さんのジェニーさんもおきれいだし、賢くていらっしゃる、それでもお母さんの若い頃にはあまり似ておいでじゃないわ、よくみなさんがおっしゃるような「ハッとする」ようなところがおありにならないのですもの。
ミセス・アンズレイもときどき流行語を使うのだけれど、そのときは、こんなに大胆な言葉は口にしたことがないとでもいうように、引用符がついているがごとくに使ってみせるのだった。たしかにジェニーは母親には似ていなかった。ときどき、ミセス・アンズレイは思うのだ。アライダ・スレイドはがっかりしているでしょうね、これまでずうっと悲しい生活を送ってきたのですもの。失敗と勘違いばかりの人生。ミセス・アンズレイはいつだって気の毒でたまらなかった……。

 このように二人の女性はそれぞれに、自分の小さな望遠鏡をさかさまにして、相手の姿を眺めていたのだった。

II

 言葉を交わすこともなく、並んで腰をおろしているうちに、長い時間が過ぎていた。まるで、人間の死すべき運命を忘れさせてはおかないような巨大な存在を目の前にしたふたりが、救済というものは、むしろ無為に過ごす時のうちにあるのだと感じているかのように。身じろぎもせず座っているミセス・スレイドの目は、シーザー宮殿へと続く金色の坂にじっと注がれており、やがてミセス・アンズレイもハンドバッグをもてあそぶのをやめて、深い物思いに沈んでいった。たいていの親しい友人がそうであるように、このふたりも黙ったままいっしょにいたことなど絶えてなく、ミセス・アンズレイは、長年の親しいつき合いのなかでも初めての経験に、どうしたらよいものか見当もつかず、かすかにとまどいを覚えていた。

 だしぬけに、あたり一帯に鐘の音の深い響きが満ちあふれ、ローマの市街地全体がひとつの教会にすっぽりとおさまったような、銀色の天井に覆われたような刻限が訪れた。ミセス・スレイドは腕時計に目を走らせる。「もう五時なんだわ」とさも驚いたように言った。

 ミセス・アンズレイはそれとなく尋ねた。「五時に大使館でブリッジがあるんだったわよね」
ミセス・スレイドは答えない。ずいぶん考えこんでいるみたい、たぶん聞こえなかったんだわ、ミセス・アンズレイはそう思った。だが、しばらくしてから、急に夢から覚めでもしたように返事がかえってきた。「ブリッジって言った? もし行きたくないんだったら……わたしは行きたい気分ではないけど」

「ええ、そうね」ミセス・アンズレイは即座に同意した。「わたしもほんとうはどうだってよかったの。ここはほんとうに美しいのですもの。あなたの言うとおり、昔の思い出がたくさん」椅子に身を沈めて、半ば隠すようにして編み物を取りだした。その仕草を目の隅で捉えたミセス・スレイドだったが、手入れの行き届いた自分の手は、膝の上に置いたまま、動かそうともしなかった。

「わたしが考えていたのはね」とミセス・スレイドはぽつぽつと話しはじめた。「ローマって、きっと、そこを訪れるさまざまな世代が、それぞれにまったくちがう意味を持っていたところにちがいない、ってこと。わたしたちの祖母の世代だと、なんといってもローマ熱よね。母の世代にとっては、感傷に流されかねない危険な場所――わたしたち、それはそれは見張られていたものね。だけど、娘たちときたら、ただの繁華街の真ん中にいるほどの危険しか感じていない。あの子たちは気がついていないけれど、そのためにどれほど多くのものを味わい損ねているのかしら、って」

 しだいに輝きを失っていく長い金色の日差しのために、ミセス・アンズレイは編み物を軽く持ち上げ、目に近づけた。「そうねえ。わたしたち、それはそれは厳重に保護されていたものね」

「わたし、よくこんなふうに思ったわ」ミセス・スレイドは言葉を継いだ。「母の世代は、祖母の世代よりずっと大変だったんじゃないのかしら、って。ローマ熱が街中で流行っていた時代なら、危ない時間帯に娘を閉じこめておくのもむずかしいことじゃなかった。だけど、あなたやわたしが若かった頃は、おもしろそうなものはあちこちで手招きしているし、ときには反抗してみるのも刺激的だし、日が翳って寒くなってからだって、せいぜい風邪をひくぐらいの危険しかなかったし、母親たちはわたしたちを閉じこめておくのにさぞかし苦労をしたことでしょうね」

 ミセス・アンズレイを見やると、目下、編み物は難しい箇所にさしかかっているらしい。「一、二、三――ふたつ飛んで――、そうね、きっとそうだったんでしょうね」と顔を上げることもなく同意した。

 その様子をミセス・スレイドはしげしげと眺めた。
――編み物ができるなんてねえ……こんな景色を前にして。まったくこのひとらしい……。


入植者は、トウモロコシを使用したもの

 椅子にもたれたミセス・スレイドは、ためつすがめつ、視線を目の前の廃墟から、フォロ・ロマーノの草の繁る窪地へ、その向こうの移りゆく陽を浴びている教会正面へ、さらにその外側に拡がる巨大なコロッセオへとさまよわせていった。突如、ある思いが胸に兆した。
――娘たちが感傷に流されることもなく、月の光を見ても何も感じたりしなくなるのは、おおいにありがたいことだけれど。でも、たとえバブス・アンズレイがあの若い飛行機乗り、例のマルタ島出身の彼を自分のものにするために出かけたのでなかったとしても、わたしにはどうすることもできない。バブスがいたら、ジェニーには何のチャンスもないし。それなら話ははっきりとしてくる。だからグレイス・アンズレイは娘ふたりをどこだってくっつけて行かせたがるのかも。かわいそうなうちのジェニーはカモフラージュってわけね。
ミセス・スレイドはほとんど声を出さずにそっと笑ったが、それを耳に留めたミセス・アンズレイは編み物をしている手を下ろした。

「どうかしたの」

「え?……あら、なんでもないのよ、ただお宅のバブスはなんであれ、目の前のものを逃すようなことはしないだろう、って思っただけ。あのカムポリエリ家のご子息は、ローマで見つかる最高のお相手よ。あら、気がついてないふりをしたって駄目。あなただって知ってたんでしょ、彼がだれだか。わたし、ずっと不思議だった。もちろん尊敬の念をこめて、ってことだけど、わかるでしょ……あなたとホレイスみたいに模範的な人のところに、どうしてあんなエネルギーの固まりみたいなお嬢さんが生まれたんでしょうね」もういちど笑ってみせるミセス・スレイドの声音には、かすかに棘が含まれていた。

ミセス・アンズレイの手は編み針を交差させたまま止まった。まっすぐに眼を向けている先は、情熱と栄華が実を結んだあげくに壮大な廃墟となって拡がっている。その小ぶりな横顔には何の表情も浮かんでいなかった。やがて言った。「ずいぶんバブスを買いかぶっているようね」

 ミセス・スレイドの口調は、一転、ざっくばらんなものになった。「とんでもない。わたしにはあの娘がわかるのよ。たぶん、あなたがうらやましいのかもしれない。もちろんうちの娘は、そりゃもう非の打ち所もない子だわ。もし重い病気に罹るようなことでもあれば、わたしだってジェニーに面倒をみてほしい。そんなときもあるにちがいないわ……でもね。わたしはずっとパッと華やかな娘がほしかった……そんな子のかわりに、どうしてわたしから天使が生まれちゃったのか、皆目見当がつかないのよ」

 つられて笑い出したミセス・アンズレイは、そっとつぶやいた。「バブスだって天使よ」

「もちろんよ――もちろんそうだわね。だけどあの子の羽根は虹色に輝いてる。ああ、あの子たちはいまごろ男の子たちと海辺を散歩してるんでしょうね……そうして、わたしたちはここにこうして座ってる……昔のこと、なにもかも痛いくらいに憶えているのに」

 ミセス・アンズレイの手はまた編み物を始めている。見ようによっては(彼女のことをたいして知らない人だったら、とミセス・スレイドは考えた)その姿もまた、荘厳な廃墟が落とす長く伸びた影を見ているうちに、あふれだす思い出がその胸を満たしているのだとも受け取れる。でも、彼女はそんなひとじゃない。ただ編み物に夢中になっているだけ。何を思いわずらうことがあるでしょう。この人は、娘がこれ以上は望みようがないほどのお相手、カムポリエリの息子と婚約してくるって知ってるんだもの。
――きっとニューヨークの家は売りに出して、ローマの娘夫婦の近くに家を買うのだわ。邪魔にならないように……まったくうまいことやるもんね。一流のコックを雇って、ブリッジやカクテルパーティには相応の人を招いて……孫に囲まれて、満ち足りて、夢みたいな老後を送るのよ。

 不意に自己嫌悪にかられたミセス・スレイドは、先走る空想をうち切った。グレイス・アンズレイくらい、わたしが悪く思ってはいけない相手はいないというのに。彼女を妬まなくてすむようになるときなんて、わたしには来ないのかしら。それも、あまりに昔から嫉み続けたせい?

 立ち上がって手すりにもたれ、思い惑う自分の胸の内を、時の魔力で鎮めようとした。だがその光景も、心を慰めるどころか、苛立ちは増すばかりである。眼をコロッセオに転じた。金色の壁面も、いまや紫色の影に包まれ、その上には水晶のように澄んだ空が、光も色もなく弧を描いている。天頂では昼と夜がきわどく均衡を保つ刻限になっていた。

 ミセス・スレイドは振り返って、友だちの腕に手を置いた。唐突な仕草に、ミセス・アンズレイは驚いて顔をあげた。

「日が沈んだわ。あなた、怖くはなくて?」

「怖い、ですって?」

「ローマ熱や肺炎が。あの冬、あなたの病気がどれだけ重かったか忘れられないわ。若い頃、あなた、弱い喉をしてたでしょう?」

「あら、わたしたち、この高い場所にいるんだから心配なくてよ。下のフォロ・ロマーノのなかに入ったら、急に、ゾッとするほど冷えてくるのだけれど……でも、ここなら大丈夫」

「あらそうだった、もちろんあなたは知ってたわよね、あなたは用心しなきゃならなかったんだもの」ミセス・スレイドは手すりの方に向き直った。
――なんとかもっと努力して、グレイスを憎まないようにしなくちゃ。
それから声に出してはこう言った。「ここからフォロ・ロマーノを見るたびに、あなたの大伯母さんの話を思い出すのよ。あのすごく意地悪な大伯母さん、そうだったわよね?」

「そうよ。ハリエット伯母さま。妹を日が沈んでからフォロ・ロマーノに行かせたひと。アルバムで押し花を作りたいから、夜咲く花を摘んできて頂戴、って。一族の大伯母さまやらお祖母さまやらが、みんな押し花のアルバムを作っているからって」

 ミセス・スレイドはうなずいた。「だけど、ほんとうは同じ人が好きだったから、妹を行かせたのよね?」

「ええ、一族ではそんなふうに伝わってるわ。そのあと何年もたってからハリエット伯母さまが自分から打ちあけたのですって。ともかく、そのかわいそうな妹は熱を出して亡くなった。母はわたしたちが子供のころからその話をしては怖がらせていたものよ」

「あなたから聞いて、わたしも怖くなったわ。あなたもわたしもまだ若かったあの冬のことよ。その年、わたし、デルフィンと婚約したんだった」

 ミセス・アンズレイは微笑を浮かべた。「あらあら、わたしがあなたを怖がらせたの? 怖くなったってほんとう? あなたはそんなに簡単に怖がったりはしないひとだと思っていたけれど」

「たしかにいつもだったらね。だけど、そのときは怖かったの。すぐに怖くなった、だってあまりに幸せだったから。わたしが言う意味がわかるかしら?」

「わたしが? そうね……」ミセス・アンズレイは言いよどんだ。

「そうなのよ、だからあなたの意地悪な大伯母さんの話に、ものすごく強烈な印象を受けたの。わたし、考えたわ。"いまはもうローマ熱なんてない。だけど、フォロ・ロマーノは日が落ちると急にものすごく冷え込む。とくに、昼間が暑いような日はいっそう。コロッセオとなると、もっと寒いし湿気もひどいわ"って」

「コロッセオですって?」

「そうよ。夜になって門が施錠されると、中にはいるのは簡単なことじゃなかった。というか、すごく大変だった。でも、あのころは、入ろうと思えば入ることだってできたのよ。よく入りこんでたわ。よそで会わせてもらえない恋人たちは、あそこで会ってたの。知ってた?」

「わたしが? どうだったかしら。よく憶えてないわ」

「憶えてない、ですって? あなた、暗くなってからどこかの廃墟に行って、ひどい風邪を引いたこと、憶えてないの? あなた、月の出を見に行った、っていう話だった。そんな探検に行くから病気になったんだ、って、みんな言ってたものよ」

 しばらくの静寂が訪れた。それからミセス・アンズレイが言った。「みんな、そんなことを言ってたの? でも、なにもかも昔のことよ」

「そうね、あなたも元気になったし。だから、たいしたことじゃなかったのかもしれない。だけど、みんな驚いたわ。あなたがなんで病気になったんだろう、って。だって、喉が弱いあなたが用心してたことはみんな知ってたし、お母さまだってとても気をつけていらしたじゃない……なのにあの晩、遅くまであちこち見て歩いていたのよね」

「そうだったかもしれない。けれど、どれほど用心深い人間でも、たまには用心を忘れることだってあるのじゃなくて? でも、どうしていまになってそんなことが気になるのかしら」

 ミセス・スレイドには前もって答えの用意はなかったらしい。だが、一瞬の間をおくと、吐き出すように言った。「もうこれ以上、我慢できないからよ」

 咄嗟にミセス・アンズレイは顔を上げた。大きく見開かれた目は真っ青に見えた。「我慢できなかった、ってどういうこと?」

「あなたが気がついてないからよ。なんで出ていったか、わたしが最初から知ってたってこと」

「なんで出ていったか、ですって?」

「はったりで言ってると思ってるのね? とんでもないわ。あなたが行ったのは、男と、それもわたしが婚約している男と会うためだったのよね、おまけにわたし、あなたをおびきだした手紙を、ひとこと残らず知ってるのよ」

 ミセス・スレイドの話の途中、ミセス・アンズレイはふらふらと立ち上がっていた。床に滑り落ちたハンドバッグや編み物、手袋が、その内心の動揺のほどを伝えている。ミセス・スレイドに向けられた眼差しは、幽霊でも見ているかのようだった。

「ち、ちがうわ……」しどろもどろにそう言った。


ジュリアス·シーザーは、ローマの影響をどのように

「ちがう? なら、聞いてみて。これでもまだわたしが嘘を言ってると思う?"ぼくの大切なひとへ、このまま話を進めていいとは思えません。ふたりだけでお会いしなくては。明日、日が落ちたらすぐ、コロッセオまでいらっしゃってください。中に入れてくれる人がいるはずです。疑われるんじゃないかと怖れる必要は無用です。"――だけど、あなたは手紙の内容なんて、忘れてしまってるでしょうね」

 意外なことに、落ち着きを取りもどしたミセス・アンズレイは反撃の構えをとった。椅子を背にまっすぐ立って相手を見返す。「いいえ。一言たりとも忘れていないわ」

「署名はどうなってた? "あなただけの D.S."そうじゃなかった? そうだったでしょ、その手紙のために、あなた、あの晩暗くなってから、のこのこ出ていったのよね」

 ミセス・アンズレイはミセス・スレイドから眼を離さなかった。小さくておとなしそうな顔、感情を押し殺して、仮面をかぶったような表情の奧で、いまゆっくりと葛藤が起こっているんだわ、とミセス・スレイドは考えた。
――このひとがこんなにも自分をコントロールできるなんて思ってもみなかった。
ミセス・スレイドは、あふれだす反感をどうにも抑えられなくなっていた。

そのとき、ミセス・アンズレイが口を開いた。「どうしてあなたが知っているのかしら。手紙はすぐに燃やしたのに」

「なるほど、燃やしたのね。当然よね、あなた、抜け目がない人だもの」せせら笑うように言葉を続けた。「それで手紙は焼いたのに、どうして中味をわたしが知ってるのかしら、って思ってるんでしょ、ちがって?」

 ミセス・スレイドは返事を待ったが、ミセス・アンズレイは口を開こうとしない。

「あのね、わたしが中味を知ってるのは、わたしが書いた手紙だったからよ」

「あなたが、あれを書いた?」

「そうよ」

 間もなく沈もうとする金色の日差しを浴びながら、ふたりの女は立ったまま、にらみ合った。やがて、ミセス・アンズレイが崩れるように椅子に腰をおろした。「ああ」そう呻くと、両手に顔を埋めた。

 ミセス・スレイドはいらいらしながらつぎの言葉か動作を待った。だが、何の変化もないために、自分から沈黙を破った。「わたしのこと、ぞっとしたでしょ」

 ミセス・アンズレイは両手を膝に落とした。手を離した面は、涙の筋が跡をつけている。「あなたのことを考えていたのではないの。わたしが思ったのは、あれが、あれがあのひとからもらったたった一通の手紙だったのに、っていうこと」

「そうして、それはわたしが書いたものだった。ええ、そうよ、わたしが書いたの。だけどね、彼と婚約してたのはわたしなのよ。たまたまそれを忘れちゃった、ってこと?」

 ミセス・アンズレイはまたうなだれた。「言いわけなんてするつもりはないけれど……もちろん忘れたことはなかった……」

「それでも行ったんでしょ?」

「それでも行ったのよ」

 ミセス・スレイドは立ったまま、かたわらで肩を落とす小さな姿を見おろしていた。憤懣はもう治まっており、いったいなにがうれしくて自分の友だちを意味もなく傷つけたのだろう、と不思議な気持ちに襲われた。だが、わたしはまちがっていない、そのことを示さなくては。

「あなた、ほんとうにわかってる? わたし、気がついてたのよ。だから、あなたを憎んだの。あなたがデルフィンに夢中だったことを知っていたから、わたしは不安だった。あなたのおしとやかな物腰とか、やさしいところとか……それから……とにかく、わたしはあなたに邪魔しないでほしかった、ただそれだけだったのよ。ほんの二、三週間、わたしが彼の気持ちをはっきりさせられるまで。だから、怒りに我を忘れて手紙を書いたの……なんでいまになってこんな話をあなたに聞かせてるのか、わからないけれど」

「たぶん」ミセス・アンズレイはぽつりと言った。「ずっとわたしを憎んでいたからでしょうね」

「そうかもしれない。そうじゃなくて、このことをすっかり頭から閉めだしてしまいたかったからかもしれない」しばらくして、また言葉をついだ。「あなたが手紙を焼いてくれて助かったわ。もちろん、あなたが死ぬかもしれない、なんて、夢にも思わなかったのよ」

 ふたたび深い沈黙に落ちたミセス・アンズレイを見おろしながら、ミセス・スレイドは、自分が人間の暖かな心のやりとりから閉め出されてしまったような、奇妙に孤独な感じに陥ってしまっていることに気がついた。「あなた、わたしのことを、怪物だと思ってるんでしょう」

「わからない……だけど、あれはほんとうに、わたしがもらった、たった一通の手紙だったの。なのに、あなたはあれを彼が書いたものじゃない、って言うのね」

「ああ、あなたはいまだに彼のことを忘れてないのね」

「わたしが忘れられないのは、あのときの思い出なのよ」ミセス・アンズレイは答えた。

 ミセス・スレイドは、なおも相手を見おろしたままでいた。強烈な衝撃を受けて、体全体が縮んでしまい、立ち上がったところに風が吹きでもしたら、砂埃のように飛び散ってしまいそうだ。その姿を見たミセス・スレイドの胸の内は、ふたたび嫉妬のために焦げつきそうになった。何年ものあいだ、この女はあの手紙を心のよすがにしていたんだわ。どれだけあの人のことを愛していたんだろう、灰になったものの思い出なんかを宝物にしてただなんて。その手紙を出したのは、自分の友だちの婚約相手だったのよ。怪物は、この女のほうじゃないかしら?

「あなた、なんとかしてわたしから彼を奪おうと必死だったのね? だけど、みじめな結果に終わったんだわ。彼はずっとわたしのものだった。そういうことよ」

「そうね、そういうことになるわね」

「こんなこと、話さなければよかった。あなたがそんなふうに感じるなんて思いもしなかったんだもの。笑い話として聞いてくれると思ってた。だって、大昔の話じゃない、あなたもさっきそう言ったでしょ。それにこの点は認めておいてね、あなたがまさか深刻に受けとめるなんて、わたしにわかるわけがないでしょう。どうしてそんなことがわかって? あなたはホレイス・アンズレイとたった二ヶ月後に結婚したんですもの。ベッドから起きられるようになったらすぐに、あなたのお母様はあなたをフィレンツェにやって、結婚させたでしょう? みんな、びっくりしてた。なにもかも、ずいぶん急に進むのね、って。だけどわたしにはわかるような気がした。あなたはやけになったんだ、って。デルフィンとわたしより先に、結� ��してみせたかったんだ、って。女の子ってよくバカみたいな理由で、一番大切なことを決めてしまったりするものだから。そんなにすぐに結婚できるくらいなら、結局のところ、あなたはそれほど真剣だったわけでもなかったんだ、って、わたしは思ってたの」

「そうね、そうかもしれないわね」ミセス・アンズレイもうなずいた。

 上空の澄んだ空には、金色の光も残っていなかった。あたり一面、夕闇が拡がり、七つの丘は、刷毛ではいたようにさっと黒く染まっていた。足下の木立を抜けて、そこかしこで灯りが瞬き始めた。ひとけのなかったテラスを行き来する足音が響く。入り口から階段を見おろしていたウェイターたちも、トレイやナプキン、ワインを入れたフラスコを持って、また戻ってきた。テーブルを動かし、椅子の位置を直す。細い線に繋がれた豆電球がちかちかと点滅を始めた。急にダスターコートを着た太った女性が入ってきて、片言のイタリア語で、綴じの外れた旅行案内書を留めていたゴムバンドが落ちているのをだれか見なかったか、と聞いた。自分が食事をとっていたテーブルの下を杖でさぐり、ウェイターもそれを手伝った。

 ミセス・スレイドとミセス・アンズレイが腰を下ろしている一隅は、そこだけ影に包まれ、ひっそりとしている。もう長いこと、互いに口もきいていなかった。とうとうミセス・スレイドがまた口を開いた。「たぶんわたしは冗談のつもりだったのよ」

「冗談?」

「そう、女の子はときどき、恐ろしいことをしてしまうわよね。恋をしてるときは、とくにそう。それで、わたしは一晩中、笑ってたのをよく覚えているわ。あなたが暗い中をうろうろしながらずっと待っているところや、人目を避けながら、どんな物音も聞き逃すまいと耳をそばだてて、なかに入ろうとしているところを想像して。もちろん、そのあとあなたが重い病気になったことを聞いて、青ざめてしまったけれど」

 ミセス・アンズレイは長いあいだ、身じろぎもせずにいた。だが、そこで初めてゆっくりと相手の方に向き直った。「わたしは待ってないの。あの人が全部段取りをつけてくれたから。そこにいてくれたのよ。すぐにわたしたち、なかに入っていったの」

 身を乗り出して聞いていたミセス・スレイドは、飛び上がった。「デルフィンがそこにいた? なかに入れてもらったですって? 嘘よ、そんなこと」激したように大きな声を出した。

 さきほどにくらべると格段に明瞭になったミセス・アンズレイの言葉には、不思議でたまらないような響きがあった。「もちろん、あの人はそこにいたのよ。当たり前でしょう?」

「そこにいた? どうしてあなたがそこに来ることを彼が知ってたの? でたらめよ、そんなこと」

 ミセス・アンズレイは過去を懐かしむかのように、ためらいがちに答えた。「だって、わたしは返事を書いたのだもの。わたし、うかがいます、って。だから来てくれたの」

 ミセス・スレイドは両手で顔をおおった。「まあ、なんてこと、あなた、返事を書いたのね。返事を書くなんて、夢にも思わなかった……」

「なんでそう思ったのかわからないわ、あなたが手紙を書いたんだとしたら」

「そうね。怒りのあまり盲目になってたのね」


 立ち上がったミセス・アンズレイは、毛皮のスカーフを首にかけた。「ここは冷えてきたわ。行きましょう……あなたには申し訳ないことをしたと思っているわ」スカーフをきっちりと首の周りに結び合わせながらそう言った。

 思いがけない言葉に、ミセス・スレイドは胸を突かれたようだった。「ええ、行った方がよさそうね」ハンドバッグとケープを取り上げた。「どうしてわたしに謝る必要があるのかわからないわ」と呟いた。

 立ち上がったミセス・アンズレイは、相手から目をそらして、闇の向こうにある巨大なコロッセオに眼をやった。「それは……わたし、あの晩、待たなくて良かったから」

 ミセス・スレイドは落ち着かなげな笑い声をあげた。「確かにあのときはわたしが負けた。恨み言なんてわたしが言っちゃいけないわね。それから先、長い長い年月があったのだもの。結局、すべてを手に入れたのは、わたし。二十五年間、彼はわたしのものだったんですもの。そしてあなたが手に入れたのは、あの人が書いたわけでもない一通の手紙だけ」

 ミセス・アンズレイはふたたび口をつぐんだ。やがてテラスの出口の方向へ足を一歩踏み出したところで、振り返って相手の顔を見た。

「わたしはバーバラを手に入れたの」そう言うと、ミセス・スレイドの先に立って、階段に向かって歩き出した。

The End

(※なお、 でローマの光景が紹介されています。
ふたりはパルティーノ丘も見ていたので、ここで紹介されているのとは反対の方角から見ていたのでしょうが、なんとなく、見おろす雰囲気は伝わってきます。
それにしても廃墟の規模には驚きます。帝政ローマ期の人々が持っていた建築技術というのは、すでに相当なものだったのでしょうね)



三者関係の苦悩

イーディス・ウォートンの『ローマ熱』と夏目漱石の『こころ』(1914)は、同じ構造を持っている。
もちろん、ウォートンの主人公たちは、漱石の主人公たちとはちがって、自我だのなんだのと、こむずかしい、七面倒なことは言わない。だから、自分の行為を恥じて悩むこともないし、自殺することもない。それだけにふたりの関係は単純な、恋愛におけるライヴァル関係にしか見えない。
けれども、『こころ』の「先生」とKが、単純にひとりの女性をめぐって争ったわけではないように、『ローマ熱』でもアライダ(のちのミセス・スレイド)とグレイス(のちのミセス・アンズレイ)はデルフィン・スレイドをめぐって争ってはいない。

もしこの物語が単純なライヴァル関係の物語、恋愛における勝者と敗者の物語であるならば、どうしてアライダが、勝敗が決したのち、すなわちデルフィンと結婚したのちも、グレイスの動向に異常なぐらいの関心を持ち続けたのか。
自分愛していた相手とめでたく結ばれ、結婚できたのだ。それだけで申し分なく幸せなはずではないか。
そしてまた、アライダのグレイスに対する関心はある日急に薄れる。それは、アライダが考えるように、単調な生活を監視するのに飽きたせいなのか。
そうして作品の「いま」、ローマで再開して、過去のことを執拗に蒸し返すことになったのはいったいなぜなのか。

『こころ』という作品を「先生」(主体)とK(媒介者)とお嬢さん(客体)の三者関係として読み解いた作田啓一の『個人主義の運命』は、主体と媒介者の関係を以下のように説明する。この主体−媒介者−客体という関係は、見事なまでにアライダ−グレイス−デルフィンの関係に当てはまる。

 主体は媒介者が自分よりも先んじて客体に接近しているので、主体は媒介者をあがめないわけにはゆきません。しかしまた、媒介者は主体にとって欲望の達成を妨げる決定的な障害でもあります。そこで、主体にとって媒介者は自分の欲望を刺激し、客体に夢中にならせておきながら、客体に接近しようとすると、それを邪魔する悪意の持ち主に見えるのです。そしてまた、この手本は見習い手である自分を軽侮しているようにも見えます。

このような不当な扱い――と主体には見えるのですが――を主体は我慢することができません。自分の欲望の達成を妨げ、自分を軽侮している人間をあがめ、この人間の欲求を模倣しているという事実を認めることは、主体の自尊心を苦しめます。手本=媒介者に対する崇拝と恨みという相半する感情(フロイトの用語を借りればアンビヴァレンス)によって引き裂かれた主体は、自己の内部の矛盾から免れようとして、媒介者の中にもっぱらライヴァルの役割を見ようとします。そして本来の役割であった手本の役割を認めることをいやがります。主体は媒介者を手本としてあがめ、彼を模倣している事実を、客体や他の人々に隠すだけではなく、自己自身にも隠そうとします。こうしてライヴァルとしての媒介者への敵意だけが表面� ��あらわれてきます。

(作田啓一『個人主義の運命』 岩波新書)

アライダは、美しく物腰の穏やかなグレイスになりたかった。
前後関係から判断すれば、おそらくグレイスが登場した時点で、アライダとデルフィンのあいだにはすでに婚約は成立している。けれども、グレイスがデルフィンを好きになった時点で、アライダの恋愛感情もほんとうに始まったのである。

すでに婚約しているのに、グレイスに対して危機感を募らせるのも、考えてみれば奇妙な話である。ふつうに考えれば、その時点でグレイスはライヴァルとさえいえないのである。だが、グレイスを手本としているアライダから見れば、デルフィンがグレイスを選ぶのは、むしろ当然ということになる。
何としても排除しようとして弄する策さえ、グレイスから聞いた話の模倣である。その結果、首尾良く結婚できたのちでさえ、ミセス・アンズレイとなったグレイスの監視がやめられない。
そこから抜け出したのは、夫の社会的地位が上がって、夫によって、新しい役割が与えられたからである。「顧問弁護士の妻」の役割モデルは、もはやグレイスに求めるわけにはいかない。だから、その時期の彼女は、グレイスのことを忘れていられたのである。
ところが夫の死後、また、自らの役割モデルを失ったアライダは、そこで再会したグレイス、バーバラの母親であるグレイスに、ふたたび手本を見てしまうのである。

再会したアライダは、自分がグレイスを模倣していることを認めまいとして、自分のほうが優越する側であることをグレイスに認めさせようとする。
つまり、自分はあなたの秘密を知っているのだ。知っているという点において、あなたに優越しているのだ。
さらに、それはわたしが仕組んだこと。あなたはわたしの筋書きに踊らされていたに過ぎない。
二重の意味で優越していることを認めさせたくて、自分が手紙を書いたことを打ちあける。

ところが、グレイスの側はショックを受けるものの、それは、思い出のよすがとして宝物のように大切に思っていた手紙が、デルフィンの手になるものではないことを知ったためのショックである。
実際にそこでデルフィンと会い、おそらくは感情の交流と、なんらかの合意と確認があったのちに肉体関係を結んだグレイスから見れば、アライダの策略がきっかけであったことがいまさら明らかになったところで、たいした意味はないのだ。
グレイスにとって、アライダは依然として「失敗と勘違いばかり」の気の毒な人物、たとえデルフィンと結婚していたとしても、ライヴァルとはなり得ないのである。

そのことを知って打ちのめされたアライダは、その結果、自分がグレイスを模倣していたことに気がつくのだろうか。
自分を苦しめているのがグレイスではなく、一方でグレイスをモデルとし、もう一方で、何としてもグレイスにうち勝とうとしている自分自身なのだということに、気がつくだろうか。
そうして、グレイスのデルフィンに対する思いの深さにふれて、逆に自分の側の愛の不在に気がつくのだろうか。
こうして自分がグレイスの目に映っていなかったこと、グレイスにとってはライヴァルですらなかったことに否応なく向き合わされたアライダではあるが、逆に、この経験は、自分の内にあったのが愛ではなく、ただグレイスの愛を模倣していたにすぎなかったことに気がつくチャンスであったともいえる。

『ローマ熱』の登場人物たちは、社会的階層の制約はあるにせよ、結婚はまわりから強制されるものではなく、個人の「自由な」結びつきとなる世代である。
そうなると逆に、自分の行動は自分で決めていかなければならない。母親の世代の行動をモデルにするわけにはいかなかったアライダは、身近なグレイスを行動のモデルとする。
それでも、当時の女性にとっての行動とは、男性に選ばれ、夫を助け、子供をもうけるものでしかなかった。
現代は、当時に比べてはるかに行動の選択の幅も拡がったように思える。
そのぶん、わたしたちの行動は、より身近なモデルを必要とするようになった。その結果、だれもが互いに互いの行動を模倣しあうようになる。自分がこうしたい、こうありたいという「欲望」も、実はだれかの「欲望」なのではないか。

作者はもうひとつ、アライダとグレイスの対立軸を用意している。
アライダは、徹底して「見る人」であるのに対して、グレイスは「ただ眺めているだけなのにうんざりしてしま」い、編み物を始める「行動する人」なのである。
最後の場面でも、一歩を踏み出すのはグレイス、一見おとなしく、ひかえめな彼女のほうだ。

見ることをやめて、自分が主体として行動すること。たとえそれがささやかなものであっても。
ウォートンの「処方箋」は、だれもがだれかの欲望を模倣して生きることを余儀なくされている現代のわたしたちから見れば、あまりにナイーヴなものなのかもしれない。
それでも行動することによってしか、わたしたちは自分の意識がほんとうはどこに向かっているのかを知ることはできない。
アライダにはまだジェニーが残っている。バーバラという媒介者を通さずに、このあとジェニーを見ることができるのだろうか。ジェニーと向かい合うことができるのだろうか。



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