2012年3月3日土曜日

#137 「大東亜」戦争とは何だったか。 ~太平洋戦争という呼び方では見えない東南アジアの占領~ - 倉沢 愛子 さん(慶應義塾大学経済学部教授)

#137 「大東亜」戦争とは何だったか。 ~太平洋戦争という呼び方では見えない東南アジアの占領~ - 倉沢 愛子 さん(慶應義塾大学経済学部教授)

倉沢 愛子 さん(慶應義塾大学経済学部教授)

大東亜戦争という呼称が忘れられようとしている。
これは大東亜共栄圏(注1)を確立するため日本が主体的に戦った戦争で、決して太平洋戦争といったアメリカだけを向こうに回しての戦争ではなかった。
『「大東亜」戦争を知っていますか』を著した倉沢愛子さんに「大東亜」戦争で見えてくる史実、太平洋戦争で抜け落ちる事実について尋ねた。

1941年から45年にかけての戦争を、戦中の日本は37年に起きた日華事変も含め「大東亜戦争」と正式に定めましたが、戦後は一転して「太平洋戦争」と呼称するようになりました。「大東亜戦争」という名称を著書で使われていますが、それはなぜでしょうか。

今では「アジア・太平洋戦争」という名称があって、これはなかなかいいと思ってますから、必ずしも「大東亜」戦争という言い方にこだわっているわけではありません。

けれど、太平洋戦争ではいけない。それは日本とアメリカとの戦争を念頭に置いた表現で、アメリカが使うならいいですが、日本が使うのは誤りです。

「太平洋戦争」と対アメリカ戦だけに限った名称になったのは、なぜでしょうか。

1941年に始まった戦争は、"真珠湾攻撃で始まったアメリカとの戦争"という意識が圧倒的に強いですが、戦場の半分は東南アジアで、イギリスやオランダと戦った戦争でもあるという事実があります。(注2)それが「太平洋戦」という名称では忘れられています。それは戦後、日本はアメリカにより占領され、教育制度もアメリカの敷いたレールに沿って行われためにそういうことが起こりました。

アメリカの施策のために、戦後の教科書の中で、東南アジアに関する記述も少なくなった?

東南アジアでの戦争が抜け落ちたのは、資料・データがなく、いい加減なことが言えないという理由もありました。

確かに1970年くらいまで、戦中の東南アジアで起きた事柄についての研究は非常に遅れていました。それは戦争に対するアレルギーがあったせいでもあるでしょう。また、そうした問題がなくても、東南アジアに関しては研究自体が手薄で担い手がいなかったこともあります。70年以降になって、ようやく東南アジアにおける戦争の問題に取り組まれるようになりました。

それから30年経ちました。いまや充分情報もあるのでもっと書かれていいはずですが、まだ日米戦争に比べると日本は東南アジアでイギリスやオランダとどのように戦ったか。日本軍は東南アジアの住民をどのように占領支配したかについては、日本の教科書の扱いはまだまだ少ない。


lexのoppiaは何ですか

大東亜戦争という呼称には、「日本はアジアを欧米の支配から解放した戦争だ」と肯定的に使う人ニュアンスが含まれているようです。(注3)

そういう意味で使う人は、日本が戦争に負けた後、偶然と言えば偶然で、日本がやったからではないけれど、東南アジア諸国が次々と独立したことを指しているからです。例えば、フィリピンやビルマで、さらにベトナムとインドネシアは独立戦争を経て、独立しました。マラヤとシンガポールはやや遅れましたが、多くの国が終戦後、数年以内に独立しました。大東亜戦争肯定論者は、「この流れを決めたのは、日本が東南アジアに攻め入って、古い宗主国を倒したからだ」という見解をしているわけです。古い権力を倒さないでいたら、もっと独立は遅れただろうというのが彼らの考えです。

日本が東南アジアの独立のために、それまで支配していたアメリカ、イギリス、オランダの権力を破壊したのかというと、必ずしもそうではありません。

確かにアジアの解放を唱えていましたが、蓋を開けてみればアジアを欧米から解放した後、日本が支配したわけです。その事実が肯定論には抜けています。

欧米の後がまに座った日本が戦争に負け、さらにその後手を引いたから東南アジアの独立が現実になった。日本軍の撤退後、欧米列強の宗主国は東南アジアに戻って来ましたが、抵抗を受けましたし、また世界的な趨勢としてそういった「植民地主義」に対する批判も高まっていました。そういう経緯で独立が成ったわけで、日本軍の行為が独立のきっかけになったとしても日本の善意ではなく、また意図して独立を助力したわけではありません。日本にとって都合のいい部分だけを見て、解放戦争だったという人たちがいますが、それは事実ではありません。

解放戦争だったと唱える人の中には、実際に兵士として戦ったという実感を伴っている場合もあります。

そもそも日本でもトップで指令を出していた人たちのレベルと、現場で東南アジアの住民と接していた人との間ではずれがあります。現場にいた多くの人は、「アジア解放のために戦争している」という意識を宣伝や教育で植え付けられていたので、「自分たちはいいことをしている」と信じていました。

その人たちが戦後日本に戻って来て、「あれは侵略戦争だ」と言われると心外なわけです。それは気持ちとしてはわかりますし、そう思う彼らを責めたいとは思いません。

でも、日本が国家として行ったことは、明らかに「資源獲得のための支配だった」と考えています。それを区別しないといけません。


フランスを支配していた人時メトリックシステムesablishedましたか?

自分の経験に基づくだけに、その区別は難しいかもしれません。

命をかけて赴いた人の気持ちは大切にした上で、やはりそういう人たちの考えていたことと国家が考えていたことには大きな隔たりがありました。かといって現地で接していた日本人と東南アジアの住民の間には、必ずしもギャップだけがあったわけではなく、意外と意気投合して琴線に触れ合う部分もありました。それは占領されていた人たちも認めています。国家としての日本を恨んでいても自分が直に接した兵隊や企業の社員には、個人的にいい思い出を持っているインドネシア人もいます。それも事実です。

ただ、私達が間違えるのは昔の話を聞いたとき、聞かれた人も嫌な部分は段々忘れていて、「○○さんがこういうことをしてくれた」という思い出が強く残っている場合があって、そういうところだけを聞いていると、「けっこう日本もいいことをした」と思いがちになりことです。そこは両方を聴いていかないといけません。

とても日本に愛着を感じている人もいます。ひとりの人の中にもいい思いと嫌な思いふたつ抱えている人もいます。人によっては、被害ばかり受けた人もいます。複雑な思いがあることを考えた上で、また現地でいろんな人から聞き取った内容から全体をまとめると、やはり現地にもたらした被害、物的・人的被害はすごく大きかった。それを認識しないといけません。

ドイツとソ連の戦況しだいでは、北進もありえるなど、日本軍は開戦まで東南アジア統治について綿密な戦略を立てていなかったのではないかと思われます。

それは日本史の専門分野で、私自身はあまりそのことについては持論は持っていませんが、一般的に当時の政策決定にかかわった人が言うのは、日本は追いつめられていたというものです。自存自衛のためにやむを得ず戦争に乗り出したというわけです。

つまり、中国への侵略でアメリカが経済制裁を行い石油・屑鉄などの資源を売らなくなったので、日本はこれではやっていけない状態となった。ABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)でやむを得ず戦争をしたと信じています。

つまりアメリカが資源を売ってくれないし、底を尽きそうなので、オランダ領東インド、つまり今のインドネシアから売ってもらえるよう働きかけたけれどダメだった。バタバタと慌てたところはあったと思います。戦争に持ち込むのかしないのか。最後まで方針がはっきりしないままで、非常に準備不足だったことは確かだと思います。


なぜ英国は、最初に工業化した

ところで、現地に住まわれて調査されてきたわけですが、そこで知った新しい事実というとどういったものがありますか。

これまで明らかにされなかったかどうかはわかりませんが、意外だと思ったのは、日本側は占領を始めてからは東南アジアについての知識不足を埋めるために結構いろいろな努力をしていたということです。今と違って地域研究が盛んではなく、東南アジアについて研究していたのは主として地理学の専門家でした。地理学者や経済学者など南方の地域に関心を持っている人たちほぼ全員を集めて、占領地に送り込んでいます。一時的でなく長期的に滞在させ、そこで調査研究を行わせましたし、どこの地域にも調査室、調査部を設け、本格的なフィールド調査をやっていました。ドタバタの中でそういう努力があったのは意外だったので驚きました。

文献調査でなく農村調査もやっていたので、携わった人たちの働きが戦後、東南アジア研究につながればよかったのですが、心理的に占領に関わったという後ろめたさがあったのでしょうか、戦後はむしろ避ける人が多かったようです。

現地に住んで調査をしていれば、住民の反日感情をぶつけられるなどつらい経験もされたのでは?

それでも続けようと思ったのは、調査していたのは70年代で、日本の東南アジアへの経済進出が激しい時代でした。たくさんの日本人が戦争について何も知らないまま行っているという怖さを感じました。それだけに「解明しないといけないのではないか」という使命感がありましたし、やっていけば行くほど知ることの喜びがあり、新しい発見がありましたので、それがおもしろくて夢中に過ごしたという感じです。

やはり苛酷な経験をした人も聞いて欲しいから話すのですか。

聞いてもらいたいという思いが強くあったんだと思います。確かに最初は「日本人にこんなことを言っていいのか」とためらったり、なかなか口を開いてくれませんでした。何度も同じ人の所へ通ったり、よもやま話で仲良くなったり。そうして始めて話し出してくれて、話し出すといろいろ出てくるわけです。

そうした貴重な証言も検証しようがないという問題を抱えています。

それはとても難しい問題で、とにかく誰かがAと言ったからといって、そのまま論文に書くことはできません。でも、何百人と話を聞いていると「あの人の話は嘘臭いな」と勘でわかったり、他の証言と矛盾が出てきたりすます。「うちの親が殺された」という話もそんなことはあり得ない状況だったときもあります。


今まで一番印象に残っている証言はどういったものでしょうか。

インドネシアのある地方に行ったとき、アポイントの時間に30分遅れたことがありました。インドネシアの農村ではわりと時間にルーズで、それに慣れてしまった私は30分遅れは普通だと思っていました。でも行った途端に怒鳴られました。よく聞いてみると、その地域では占領時代に50名ほどの地元行政官の大量虐殺があって、そのことはそれまで知られていませんでした。私が会いに行った人は県知事の秘書官で、虐殺を唯一逃れた人でした。ただでさえ私に会うのは嫌だったのでしょうが、人の紹介もあることで受け入れたのに遅刻した。その30分間に怒りが爆発したんだと思います。それをきっかけに事件について、具体的な話を聞き歩くことになりましたが、それはつらいことでした。つらくて、次ぎに会いになかなか行けませ� �でした。

当時私は気がつかなかったけれど、本当に辛い思いをした人はみんな私の申し出を断ったんだと思います。会ってくれない理由ははっきりとはわかりませんが、恐らく思い出したくもないのでしょう。だからそういう一番深刻な被害を受けた人たちから、私は話を聞いていないと思います。

「日本は悪いことばかりしたわけではない」という自虐史観脱却派と言われる人たちがいます。歴史を考える上で大切な視点は何でしょうか。

国家としては悪いけれど、日本人にもこういう人はいたという話はあってもいい。ただ、全体像がわからないでいいことをした話ばかりが出てきては誤解を招きます。確かに善悪でわけられない人間模様が現場では起きています。でも、東南アジアの占領は、とにかく米や鉱物資源を獲得する目的であったのは、秘密文書でも明かですし、現実の政策もすべてそこへ向かっていることはわかりました。やはり全体像の中で個別の事実を見ないといけない。高校生の皆さんにも、小手先の受験勉強用だけでなく歴史を知って欲しいです。知っておくほうが楽しいし、学んでいくことの中に知る喜びがあります。例えば、東南アジアについてであれば、『バナナと日本人』『エビと日本人』とか身近な食べ物から日本との関係を述べた本があ� ��ますから、一読することをお勧めします。付け加えれば、本を読むことも大切ですが、体を鍛えることも大事です。若い頃に体力をつけておかないと。今になって私は後悔していますから(笑)。

注1)大東亜共栄圏
 欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序をアジアに樹立するというもの。共栄とは言え、日本を盟主とし、全世界を天皇のもとに一つの家とするという「八紘一宇」がスローガンとして唱えられた。

注2)
 1941年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃よりも2時間早い午前1時30分ごろ、日本陸軍はマレー半島のコタバルに上陸を開始。インド人中心のイギリス軍守備隊との14時間にわたる攻防戦の末、日本軍は約700人の死傷者を出しながらも上陸に成功。


注3)
 林房雄の「大東亜戦争肯定論」が最も有名。大意は1945年8月15日の敗戦までの100年間、日本は欧米列強に対抗して急速に近代国家を形成するために不可避の戦争を行ってきたというもの。朝鮮併合や中国大陸、東南アジアへの侵略は、欧米諸国への対抗であり、そこにはアジア民族解放の契機を含んでいたとする。

Aiko Kurasawa
倉沢 愛子

大阪生まれ。東京大学教養学部卒業。76年~78年まで米国コーネル大学大学院留学。79年~81年まで調査のためインドネシア、オランダ、イギリス滞在。97年10月より慶應義塾大学経済学部教授。 『「大東亜」戦争を知っていますか』『女が学者になる時』など著書多数。



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