2012年5月31日木曜日


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2012年5月18日金曜日


グアダルーペ寺院 グアダルーペの聖母

グアダルーペ寺院

 メキシコシティの中心部から北に向かってバスで30分ほど走り、グアダルーペ寺院に到着しました。ここはメキシコ人にとって最重要な信仰の地です。
 ローマ・カトリック教にとっても重要な場所で、奇跡が起こった場所でもあります。なんと、向こうに見える丘(テペヤックの丘)で聖母マリアが現れたというのです。
 奇跡の場所には礼拝堂が建っています。まず、丘の上(画面中央やや右)に見える礼拝堂を別の角度から拡大してみましょう。

テペヤックの丘の礼拝堂

 テペヤックの丘に立つ礼拝堂には階段を登って行けそうですが、私たちには行く時間がありませんでした。下から望遠レンズで覗いてみました。

 この地で何が起こったのでしょう。それははるか昔、1531年にさかのぼります。アステカ帝国が滅ぼされて10年が経ったときのことです。

2012年5月16日水曜日


「インモータルズー神々の戦いー」

「落下の王国」のターセム監督の新作はなんと「300」の製作スタッフと組んだCG歴史大作。もちろん、ターセム監督の独特の映像美の世界がその最大の見所である。

映画が始まると、巨大な檻、そこにつながれたタイタン族の姿、解説とともに一本の矢がその檻を破壊する。そしてタイトル。

「300」のCGスタッフが関与しているだけあり全編が壮大なコンピューターグラフィックの世界である。そこで展開するコスチューム物の神話物語。オリンポスの神々、ギリシャの人々、そしてそれを征服しようとするハイペリオンらの軍隊、神がもたらした兵器エピロスの弓、まさにギリシャ神話の世界である。

しかし、単なるコスチュームプレイが展開する中で、ターセム監督の独特の映像美学が随所に見受けられる。奥行きのあるCGの画面の合間に左右対称の均整のとれた平面のショットが随所にちりばめられ、時として奥に視線が吸い込まれるのをふと現実に引き戻す不思議なイメージを生み出す。

さらに、赤と金色、さらにホワイトをコラボレーションさせる色のイメージは「落下の王国」でも目にしたターセム監督ならではのシャープな色のぶつかり合いを意識した色彩感覚である。

その個性が最大限に発揮されるのがクライマックスのバトルシーン。

ハイペリオンが引くエピロスの弓から放たれた一本の矢がギリシャ軍の巨大な壁の入り口を一瞬で破壊、そこへなだれ込む敵軍を通路で迎え撃つギリシャ軍。

一方、敵のハイペリオンがギリシャの神殿へ侵入、神によって封印されていたタイタン族の檻に矢を放つ。タイタン族が解放され、苦戦する主人公テセウスたちの元へ天から金色の鎧を着たゼウスたち神々が舞い降りる。金色の鎧がタイタン族を血祭りに上げていくややグロテスクな戦闘シーンが繰り広げられる。金色と真っ赤な鮮血、まっぴたつに吹き飛ぶタイタン族のイメージは時に目を背けたくなる。

2012年5月15日火曜日


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2012年5月13日日曜日


ソマリア内戦(ソマリアないせん)は、1980年代から続くソマリアの内戦。

[編集] 内戦前夜

1969年10月15日、アブディラシッド・アリー・シェルマルケ第2代大統領が暗殺され、その数日後にクーデターでモハメド・シアド・バーレ少将を指導者とする軍部が実権を握った。バーレはソマリ族が1つの国家のもとに集結すべきという大ソマリ主義を掲げてソマリ族の民族意識を煽った。この結果、1977年にエチオピアのオガデン地方に住むソマリ人が大ソマリ主義に共感し、分離独立を求めてエチオピア政府に対し反乱を起こした。ソマリアはこれに対し軍事支援を行い、エチオピア軍と戦闘状態に陥った。結局キューバ及びソ連の支援を受けたエチオピアがソマリア軍を撃退し、ソマリアは大きな損害を受けた(オガデン戦争)。

この紛争がソマリアの窮乏化を加速させたにもかかわらず、バーレ大統領はソマリ社会主義革命党による一党独裁体制のもと、自分の属する南部のマレハン氏族のみを重用し、北部のイサックなど他の有力氏族を見捨てるような政治運営を行った。経済的にも財政破綻が顕著となり、比較的豊かなマレハンと貧しい他氏族の間で所得格差も格段に広がった。また北部産のバナナや動物を輸出して得た外貨を南部の開発のためだけに費やしたことは、後にソマリランド独立による国家の再分裂という事態まで引き起こしてしまう。こういった地域・氏族偏重主義のバーレ政権に反抗し、1980年代初めより反政府勢力が連合し始めていく。

[編集] 内戦勃発

1982年から反政府武装闘争が表面化した。反政府勢力は、諸都市を次々と勢力下に治め、1989年にはバーレ政権の支配域もモガディシュおよびベルベラなど地方都市の一部のみとなった。1991年1月に反政府勢力統一ソマリア会議(USC)が首都を制圧。バーレ大統領を追放し、暫定大統領にアリ・マハディ・モハメドが就任した。しかし、暫定政権発足に際し、各勢力の内部抗争が表面化し、6月には北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立を宣言し、南北は再び分裂した。バーレ元大統領はナイジェリアのラゴスに亡命したが、1995年に死去した。

USC内でもモハメッド・ファッラ・アイディード将軍派がモハメド大統領派と対立。アイディード派の攻撃で首都を脱出したモハメド暫定大統領は、1991年12月に国際連合に対しPKO部隊派遣を要請した。アイディード派はその後、武装勢力4派と政治組織ソマリア国民同盟(SNA)を結成、モハメド派も11派を傘下に入れ内戦が激化した。

[編集] 国連展開

1992年12月、国連の国連安保理はPKO国連ソマリア活動のため、アメリカ軍を中心とする多国籍軍を派遣。続いて1993年5月、武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動が展開したが、アイディード将軍は国連に対して宣戦布告、国連パキスタン軍を攻撃して24名の兵士を殺害した。これに対し、米軍はアイディード派幹部拘束を目的とした作戦を実施したが、激しい応戦に遭い初期の目標は達成したが、18名の米国兵士とマレーシア兵士1名を失い、73名の負傷者を出した(モガディシュの戦闘)。自信をなくした米国が撤退を決定すると、主軸を失った国連活動も全て撤収する事となった。1995年3月、中央政府も無く首都も二分されたままで最後のPKO部隊が撤退し、国際社会がソマリア内戦に介入することが非常に困難であることを証明した。

[編集] 泥沼化

国連が撤収した1995年3月、アイディード派の財政を支えた実業家アリ・アトが離脱してSNAは分裂した。アリ・アト派は8月に武装勢力13派と協力関係を樹立し、アイディード派との戦闘に突入。1996年8月、砲弾による負傷が原因でアイディード将軍が死亡すると、三男のフセイン・アイディードが後継者となった。これを機に、10月には隣国ケニアが停戦協議を持ちかけたが失敗する。

1997年12月、モハメド派、アト派、アイディード派を含む武装28派がエジプトのカイロで無条件停戦などを定めた和平協定に調印、統一政府の樹立に向けて会議を開催することで合意したものの、翌1998年3月に開かれた会議で、各派の意見対立により和平合意は延期。5月に、和平合意に向けた会議を開くことを約束したが開かれず、その後は和平協定そのものが事実上無効となってしまった。

同年7月、北西部の氏族の一部が自治国家プントランド共和国の樹立を宣言する。続いて隣国のエチオピアがエリトリアと国境紛争を起こすが、その余波でエチオピアが支援するラハンウェイン抵抗軍(RRA)が1999年6月に南西部の要衝バイドアを制圧した。

2012年5月12日土曜日


早賢館長講話 「習近平、中国、そして、11/7」 その1

はい、これを読んで今の沖縄を見てみよう!沖縄にある独特の選民思想と被害者意識を異常なまでに増幅させて、沖縄を日本から孤立化させようとしているのが、一体誰であるのか?その正体はもうバレバレですね☆

そして、このまま左翼的な選民思想に流れて米軍基地を追い出したら、沖縄を待ち受ける運命がなんであるかも、もうわかりますね。「古代ユダヤの悲劇」です。民族の分断と、自らが招いた業による国(郷土)の消失です。これをなんとしてでも止めなければならない。沖縄の人々のために。そのために、金城タツロー候補は戦っているのです。

_________

小林早賢館長講話 「習近平、中国、そして、11、7」
転載

こんにちは。本日は、お足元の悪い中、北海道正心館の七の日感謝祭にご参拝くださいまして、ありがとうございます。昨日、初雪が降りましたが、初雪としては「ドカ雪」で、私も長野出身で雪には慣れておりますが、さすがに雪でパキパキと木の枝が折れる自然のパワーにはびっくりしました。

さて、世の中、段々と騒然としてまいりまして、10月24日(日)から開示されております『習近平(しゅう・きんぺい)守護霊の霊言』にて、更にいろんなことが明らかになってまいりました。

霊言を聴いたところによりますと、(習近平は)まだ、中国という国は、油断すると何が起こるかわからないので、言動にはかなり注意をし、「隙をつくらずに話さないといけない」と言っていましたが、彼が今後どうし� �ゆくかというと、軍の実権を掌握してゆき、軍が胡錦濤の命令では動かなくなったことが確認できた段階で、本領を発揮し、動き出す計画でいるみたいです。

質問者の質問に対し、過去世がチンギス・ハーンと名乗り、「本当か?!」と質問者が突っ込んでいましたが、その後の話の中で、チンギス・ハーンの前はアッシリアを世界帝国にした時の王様だったと言ってきたので、「おい!ちょっと待てよ!!」と大変驚きました。

アッシリアによるイスラエル征服は、旧約聖書にも出ているので、もし、そのとおりだとしたら大変だと感じました。この件に関しましては、あとで、詳しく説明いたしますが、ここで、お手元もチラシをご覧ください。

チラシでご紹介しておりますとおり、11月7日(日)に、ここ北海道正 心館にて、「中国と伝道の集い」を開催いたします。この企画をしたのは、9月5日の大川隆法総裁ご法話『本物の伝道』のあとで、「このあたりで一発やろうか!」ということで、道内外の関係者と相談して話を始めましたが、その時点では、「尖閣列島での中国漁船船長逮捕事件」発生の二日前で、まだ、このような状況になるとは予測してはいませんでした。

尖閣問題に関しては、石原都知事が、日曜日の朝のテレビ番組で、「海上保安庁の職員を体当たりで海に突き落として、中国漁船のいわゆる乗組員がモリで突き刺そうとしていたというのが、海上保安庁の未公開ビデオの中身である」と言っていましたね。民主党政権が、逮捕と同時に公表していれば、一発でケリがついたのに、まったく情けない"中国の僕(しもべ)� �ち"(菅・仙谷)です。

今朝(27日)の読売の出てた観測記事によれば、沖縄の知事選において、自民党本部としての推薦を、現職の仲井知事には出さない、とのことで、やっぱり彼の「県外移設論」は、ポーズではなく、本心だったというのが、証明された形となりました。

(これではさすがに、自民党本部も推薦を出せないですからね。実現党の候補擁立の正当性が、また一つ立証されると同時に、自民党サイドで空白現象、ねじれ現象が起きているのがわかります。)

主のご法話の中で「ひとたび、権力の座についたら、保守化せざるをえない。」というお話がありますが、民主党においても、「県外移設」を掲げる県連と建前上は、日米合意の実現を目指す姿勢を示さざるを得ない党本部との調整がつかず、結局� �独自候補は立てられず、前回(参院選)に引き続き「不戦敗」2連敗と、非常におもしろい局面になっていています。民主党サイドも、空白とねじれが起きています。

こういった状況をふまえつつ、先程の「習近平」について、かなり重要な話をしてまいります

前述の過去世のチンギス・ハーンに関しては、主は、「転生の全貌は明らかではない」とおっしゃりつつ、「軍事・戦の傭兵の天才ではあるが、単純な義経型の戦にだけ強いタイプではなく、政治家としての統治能力に長けていて、能力の範囲が広がっていてちょっと手ごわい感じがする」とおっしゃっております。13世記のチンギス・ハーンの事跡は、後でたどりますけれども、それを前提としつつ、質問者の「今後、何を構想しているか」との質問に対し、

①アジア全域を大中華帝国の傘下におさめる。黄色人種は、すべて、私の支配下に入れるつもりである。

②太平洋は、ハワイまで占領する。理由はハワイは、元々、アメリカの領土ではないから。
この、ハワイはアメリカの領土ではないというのは、ラ・ムーの末裔という趣旨では、一定の意味を持ちますが(ref.「ラ・ムーの霊言」)、だからと言って、中国がハワイを侵略する根拠にはなりません。

2012年5月10日木曜日


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F.E.AdcockwMVAlƃ}PhjAl̐푈pxiV^WAntike Schlachtfelder QƂB

(2)Arte della guerra, p. 275.

(3)Marmont, Modern Armies, p. 188.

(4)Frag. 60 Diehl3.

(5)Bellum Aflic. 10.

(6)The Campaign, 1. 262.

(7)i{󕶂ł͏ȗjłꂼ̖OQƂB

(8)Thuc. IV, 90 ff. Q.B; Diod, XII, 69 f. ͂قƂljlȂB

(9)G. B. Grundy, Thucydides and the History of His Age, II, pp. 134 ff.

(10)ႦThuc. III, 51, VI, 21, VI, 67, 1 QƁB

(11)Bellum Civ. III, 94, 6.

(12)Thuc, V, 8-10.

(13)C.A.H. VII, chap. XIX QƁB

(14)Diod. XVI, 79-80; Plutarch, Timoleon 25-28.

(15)C.A.H. V, pp. 269 f.

2012年5月9日水曜日


ヒトラーの政権獲得
 ヴェルサイユ条約によってがんじがらめにされた敗戦国ドイツは、そのわずか6年後には、再びヨーロッパ最強の国へと返り咲きます。ヒトラーはどのようにして、政権を獲得し、ヴェルサイユ条約を無文化させいったのでしょうか、(ヴェルサイユ体制下のヨーロッパの項でも書きましたが、英国もフランスもヴェルサイユ体制を力ずくでも維持しようとする意気込みがなかった。)その過程をここでは書きます。

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独裁への道

 ヒトラーが首相の座に着いた段階(1934年:昭和9年)で最大の関心事は、国内での独裁体制の確立と、失業問題の解決でした。そのため対外的には、反発を受けないようにメッセージを送っています。その内容は、
 「ドイツ国政府は、いかなる国との、いかなる困難な問題についても、平和的に解決することを希望している。ヨーロッパでの軍事行動は、得られる利益より犠牲のほうがはるかに大きいことをドイツはよく承知している。」
 しかし、その舌が乾かぬうちにラジオを通じて堂々と、国際連盟脱退を表明しました。
 「いかなる対等の権利も与えられないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んずる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」
 この 国際連盟脱退は、ヴェルサイユ体制を憎んでいたドイツ国民には大変好評でしたが、周辺諸国は単に「大変遺憾である」と述べたにとどまりました。ヒトラーにとって1934年は、「長いナイフの夜事件」によってナチ党突撃隊の粛清に成功したとともに、7月隣国オーストリアで、同地のナチ党が権力奪取を目指して独裁者のドルフス首相を暗殺する事件が発生しましたが、このときドルフス首相と仲の良いイタリアのムッソリーニが国境に軍隊を派遣したためオーストリアを併合しようとしたヒトラーの目論見はあえなくついえてしまいました。
 反面ヒトラーはポーランドと不可侵条約締結に成功しました。このことによってヒトラーは二正面作戦を避けることができるようになりました。この二つのことから1934年(昭和9年)はヒトラ� �にとって外交面では、一進一退の年であったといえます。

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2012年5月7日月曜日


近世編ルーベンス(1577-1640)

奔放華麗な画風を持つフランドル出身のバロック絵画の巨匠。代表作は「マリー=ド=メディシスの生涯」外交官としても活躍するなど多くの恵まれた素質を持ち、「いうことなすこと、すべてだれにもよろこばれるように生まれついていた」という性格で、最初の妻の死後53歳で16歳の美少女と結婚。5人も子供を産ませ、フランドルの豪著な館で幸福な晩年を過ごす。63歳で苦しむことなく死去。

ファン=ダイク(1599-1641)

ルーベンスにその才能を最も愛された弟子。しかし、ひとり立ちして後、師の名声は神経質な彼を圧迫。招かれるままイギリスにわたり、宮廷画家として活躍。傑作「チャールズl世像」などを残してイギリス絵画に圧倒的な影響を及� ��した。

レンブラント(1606-1669)

光と影を強調する、写実的な画法を確立したオランダのバロック画家。『毛織物商会員』などオランダ盛時の市民生括を描く。しかし、肖像画の第一人者としての名声を獲得しながら、30代半ば頃から肖像画を描くことをやめ、自己の芸術の確立(有名な団体肖像画の傑作『夜警』は、その始まりを告げる作品)と、聖書物語の鋼版画製作に熱中。そのため次第に名声と絵の注文を失い、最愛の妻にも先だたれ、晩年は破産状態となって
63歳でユダヤ人地区の貧しい家でみとる人もなく死んだ。

エル=グレコ(1541-1614)

ルネサンスとバロックを結ぶ画家でスペインで活躍し、多くの肖像画や宗教画を残す。妙に細長いその独特な人物描写でも有名。代表作は『オルガス伯爵の埋葬』『聖母昇天』実はこの名はクレタ島出身であることからついたあだなで「かのギリシア人」という意味。ちなみに本名はドメニコス=キリアコス=テオトコプーロス…。受験で本名を書けと出てくることはまずない。たぶんない。絶対ない。なくてよかったよ。

ベラスケス (1599-1660)

スペインバロック画家。ルーベンスとの出会いによりその絵は著しく向上したという。優れた肖像画や風景画を残し、代表作は「ブレダの降 伏」「女官たち」など。スペインの宮廷画家となり、40年近い宮廷生活を送り、スぺイン王室の深い信頼を受けて、宮廷の要職にもついた。特に晩年は宮廷外交官としての仕事に忙殺され、最後の仕事もスペイン王女とルイ14世の婚約に関する煩わしい公務であった。

ムリリョ(1617-82)

スペインの画家でベラスケスの弟子。代表作は『聖母受胎』17世紀のスペインで最も多作な画家である。教会の壁画の製作中、誤って足場から落ち重傷をおって数日後に死亡。

ワトー(1684-1721)

代表作『シテール島への船出』は、愛の島シテールへの巡礼に旅立とうとする若い男女が木陰に集う様を描いたもので、ロココの時代の到来を告げる作品。以後、貴族の屋外での宴会風景を優� �繊細に描く雅宴画で一世を風靡した。もっとも本人は田舎の屋根葺きの親方の息子に生まれている。生涯病身でそれが彼の絵画に独特の憂愁の色をおとしているが結局肺病が原因で37歳で早世。

バッハ(1685-1750)

バロック音楽を代表する教会音楽家で近代音楽の父と称される。代表作は『マタイ受難曲』もっともその存命中は、楽長としての名声をごく狭い範囲で得ただけで、作曲家としては無名であった。多産の家系であり、その一族の多くが音楽に関係したことでも有名。本人も、最初の妻との間に子供が7人。二度目の妻との間に13人。どうだ。

ヘンデル(1685-1759) 

ドイツのハノーヴァーの宮廷音楽家であったが、アン女王の死によってステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー公が ジョージl世としてイギリス王に招かれた(ハノーヴァー朝の成立)のを機にイギリスにわたる。バロック音楽を大成しオペラ作家としても名声を博すも、ロンドンを襲った不況の中で経営するオペラ団が倒産。この窮状の中にあって、旧友の詩人から送られた詩を読んで凄まじいインスピレーションを得、3週間ほとんど不眠不休でとりつかれたように作曲。こうして完成したのが代表作『メサイア』である。そして世に問うたこの傑作の成功によって、絶望のどん底から復活するのである。

コルネイユ(1606-1684)

ラシーヌと並び称される、ルイ14世時代を代表する悲劇作家。理性と意思の勝利をテーマにして『ル=シッド』などの傑作を残し、その作品は今日でもくりかえし上演されている� �しかし晩年には失敗作が続き、家庭の不幸に加えて年金も取り消され、世の中から忘れられて不遇のうちに死去した。

ラシーヌ(1639-1699)

コルネイユと並び称されるルイ14世時代を代表する悲劇作家。幼くして孤児となり、パスカルが所属したこと、イエズス会に対抗する運動を繰り広げていたことで有名な、ポール=ロワイヤル僧院で教育を受ける。ー時は文学に心酔して僧院を攻撃したものの悔い改め、キリス卜教信仰に基礎を置いた傑作を次々に発表。代表作『フョードル』は「完壁な美しさでキリス卜教的な霊にもとづいたもの」と評されている。実人生でも敬虔なキリス卜教徒として生き、死んだが、彼をとりまく環境は、かなり俗悪なものであった。この時代のフランスでは有力者� ��サロンが競いあって卑劣な陰謀や悪意ある批評が繰り返され、コルネイユも彼もそれに悩まされ世評高い『フョードル』すら、初演は競争相手の陰謀と妨害により失敗に終わっているのである。

モリエール(1622-1673)

2012年5月5日土曜日


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2012年5月4日金曜日


2012/2/26 「信仰の中心点」     
 聖書:創世記 15章1〜21節    説教: 
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」
アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。 しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。 あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

2012年5月2日水曜日


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