2012年2月23日木曜日

プラトン - 彼がように見えた

心の医者 − プラトン - Storia‐異人列伝

プラトンは偉大な教育者でもあったということまでは、わかった。身近に多く有為の人材を輩出したようだし、で彼が探求した学問の範囲も広かったのであろう、対象自体のとらえかたから探求・体系化そのものも課題だったらしいのだから。知にせまるための方法論すら自ら切り開くべきことだったらしい、彼は、弟子と共に対話という形で探求し表現し、ベストアンサーを求めていった・・・

今やインタネットの世界では、「教えて! goo」に質問をあげれば、みなさん待ちかまえていたように、お答えをくださるようだ。「すずめのほっぺは、なに色ですか??」ならカワユイものだが、以下のやり取りにはビックリ!! 埋もれるに惜しい貴重なQ&A、引用させてくだされ。アッケラカンと聞くほうも聞くほうだけど、お答えは親切で丁寧、専門的な知識を持ったかたのようですね。

「プラトンのいわゆるイデア論をアリストテレスはどのような点から批判したのでしょうか??教えてくださいお願いします。」

(回答)
>> イデア論は、一般的に、ものの本質はどこにあるか、に関する理論で、それを説明するためにイデア界という概念をプラトンは登場させたと言われています。私たちの住む世界とイデア界の二つに分かれていて、そのような意味では二元論的世界観ですよね。しかしその両者の関係は謎のままになっています。(プラトンはその連関にきちんと答えていない)

そこでアリストテレスは「イデア界」という概念を用いずに、ものの本質がどこにあるか、理論を展開しようとしたわけです。それが質量と形相という概念で、本質は形相にあたります。アリストテレスでは全部一つの世界の話で済んでいますから、一元論的世界です。したがって、批判点、というのは世界が二つになってしまっている点、ではないかと。
蛇足ですが、新プラトン主義のプロティノスもこの点の克服を目指しています。彼の場合「批判」ではなく「継承」と主張していますが。ですのであまり「批判」を強く捉えることはないと思います。 >>

これが、現代の、対話編なるものか??
WIKIを含め、誰かのすばらしい知識や新鮮な情報の共有ができる仕組みは可能性も大きいし、大事ですね。
プラトンがなぜシチリア通いを何度もしたのか逸話はよくわかった。が、彼の思想については踏み入る勇気もなく、今抱える命題・難題は次元が低いのか、高邁すぎる哲学では解決がみえない。とりあえず、プラトンはじめ哲学者のみなさまには、ごくろうさんといいたい。

哲学者が政治に関与、どころかローマ皇帝だったならばこれは最善のはず。ならば、プラトン直系ではなさそうストア派の哲人皇帝Marcus Aurelius、このころ、もはや国家は巨大すぎたしゲルマンなど外圧がひどすぎた、ひたむき過ぎて可愛そうな彼...プラトンに訊こうにも、理想論はあっても実践論としての政治計画はなかった...数年前思いを馳せたことはあった。

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ソクラテスの弟子のうちでいちばん有名であり、いちばん偉大であり、またその師の名を顕わしたのは、いうまでもなくプラトンだ。今晩は彼の話をしよう。少々長くなる上に、既に知っていることもあるかもしれないが、まあしんぼうして聞きたまえ。「善いことは二度繰り返しても悪くはない」とプラトンも言っているから。
さて、ペロポンネソス戦争が始まってまだ数年とたたなかった。アテナイ軍の旗色はかんばしくなかった。おまけに、アテナイではペストが猖獗をきわめて日に何人となく死んでいった。すでに、アテナイを背負っていたペリクレスもこの疫病にさらわれて2年目、そしてシケリアのレオンチノイからソフィストで雄弁家のゴルギアスが援助を求めてアテナイに来、その華麗な弁舌をもって市民たちを魅了した年。プラトンが初めてこの世の光を見たのは、ちょうどこうした陰惨で、しかもあわただしいときだった。すなわち、紀元前427年のことだ。月日は正確には定め難いが、ある伝えによれば、タルゲリオン月(5月半ー6月半)の第7日めがプラトンの誕生日として、その師ソクラテスの第6日めの誕生日とともに、アカデメイア� �徒によって祝われるならわしだったということだ。この7日めというのはちょうどアポロンの誕生日といわれている日だ。だから、このプラトンの誕生日は彼のひじょうにアポロン的な人となりから、あとでその崇拝者たちが考え出したのかも知れないね。


奴隷引用フレデリック·ダグラスの多くの形態があります

彼の父はアリストンといい、母はペリクチオネといった。アテナイ人のあいだではこういう噂もあったということだ。アリストンが許婚の結婚適齢期に達していたペリクチオネを犯そうとしたが、成功しなかった。犯すのをあきらめた途端に、アポロンの姿を認めた。そこで彼はペリクチオネがプラトンを生むまで手を触れなかった、というのだ。イエス・キリストの話とまるでそっくりじゃないか。
母方は賢人ソロンの近親ドロピデスの血を引いていた。あの有名な30人の専制政治家の一人でソフィスト的教養の深かったクリチアスは母の従兄弟に当たり、また政治家のカルミデスは兄だった。クリチアスのことはソクラテスのところで出てきたが、もう忘れたろうね。父方もアッチケの王コドロスの後裔であった。したがってプラトンは名門貴族の出ということになる。同時に、その家は裕福であったと想像される。しかし後代の著作家のうちには、プラトンは貧乏でそのために、旅行の費用をエジプトで油を売ることによってかせぎださねばならなかったとか、あるいは傭兵として勤めようとして、ソクラテスにとめられたとか伝えている者もある。

彼の兄弟にはアデイマントスとグラウコンとポトネとの三人がある。この� ��トネはプラトンのあとを襲ってアカデメイアの第2代目の学頭となったスペウシッポスの母である。他にもう一人、父の違ったアンチポンという弟がいる。アデイマントスは『ソクラテスの弁明』から考えると、彼の兄のようだ。プラトンの生地はアテナイということになっているが、ある人々によれば、アイギナ島だとのことだ。
次に彼の教育はどうだったか。読み書きはヂオニュシオスに学んだ。体育ではアリストンが師匠であった。イストモスの競技会には力士として出場したほどだったということだ。この師匠から彼はプラトンという名前をちょうだいしたという。これは「広」という意味だが、彼ががんじょうで横幅も広かったので、そう呼んだのだそうだ。前名は父方の祖父の名にちなんでアリストクレスと呼ばれていた。またある伝えによると、このプラトンという名は彼の文体が広範にわたっていたことによる、あるいはまたその額が広かったせいだとかいうことだ。
さらに音楽や絵画も学び、作詞はヂチュランポス、抒情詩、悲劇の順を追うて勉強したと言われる彼の詩がいくつか残っているから、その恋愛詩といわれるものを二、三訳して聞かせよう。しかし、偽作かも知れないよ。

   星学者アステル[星彦の意]へ ―
私のアステルよ
おまえは 空の星を仰ぎ見る
私は ああ 空になりたい
数かぎりない 星の目で
おまえを 見るため

   アガトンへ ―
アガトンに 接吻するとき
私の魂は 唇の上にいた
あわれ 私の魂は
あの子の 唇へ
のり移ろうと
そこへ 来たのだ

   クサンチッペへ ―
私は林檎
私を放りなさるは そなたをいとしく想うかた
首を振らずに ねえ クサンチッペ
私も そなたも 朽ちてなくなる
身じゃないか

プラトンが劇作家として一流の腕前をもっていたことは、その対話編から容易に察せられるが、彼は青年時代に悲劇を書いたことが伝えられている。彼は自作の劇詩をもって競演に出ようと思っていたとき、ヂオニュシオス劇場の前でソクラテスに出会い、彼のいさめを聞いて、ついにその原稿を火に投じ、その後はソクラテスの弟子になったという。ときに20歳だったとのことだ。
また、ある夜、ソクラテスは自分の膝の上にいた一羽の白鳥の雛に、たちどころに羽が生えそろったと見る間に、一声よい音に鳴いて飛び去った夢を見た。すると、翌日プラトンが彼のもとに弟子入りした。そこでソクラテスはこの男がゆうべ夢にみた白鳥だといったそうだ。白鳥はアポロン神に捧げられた神聖な鳥とされている。ちょうど梟がアテネ神に捧げられた鳥であるようなものだ。アリストテレスは彼がソクラテスに弟子入りする前にヘラクレイトスの流れを汲むクラチュロスに学んだと言っている。

プラトンはソクラテスのように三度出陣したといわれている。一度はコリントスへ、一度はデリオンへ、他の一度はタナグラへ、そしてデリオンの戦いにおいては勲章を授与されたということだ。それが事実だとしても一� ��戦争のことかよくわからない。しかしプラトンの20歳前後はちょうどペロポンネソス戦争の終わりごろに当たるから、彼も諸君と同様に、国家の危急を救うべく戦いの庭にたったかもしれない。そしてやはり諸君と同じように敗戦の苦悩をその多感な胸に味わったことだろう。その後も戦争はたびたびあったのだから、あるいはまた召集されたかもしれないね。


どのような妖精は、シェイクスピアで表現

ソクラテスからプラトンが受けた影響のいかに甚大であったかは想像するに難くないが、プラトンは死が近づいた時、第一には人間として、第二にはギリシア人として生まれたこと、第三にはその誕生がちょうどソクラテスの時代であったことに対して自分の運命を祝したということだ。
ソクラテスが死刑になったのは彼の27歳の時だった。その裁判のときには、彼みずから語っているところでは、傍聴に行って、ソクラテスの申し出た罰金の保証人たちの一人になった。しかし死刑の日にはその師の傍にいなかった。『パイドン』でみずから「プラトンは病気であったと思う」といっている。

師の処刑後、他の弟子たちとともに、同じく相弟子であったメガラのエウクレイデスのもとへ赴いた。このエウクレイデスはペロポンネソス戦争の始まる前年(紀元前432年)、アテナイ人たちがメガラに対してアテナイおよびその同盟国との交わりを禁じ、その違反者を死刑にすることにしたときにも、ソクラテスとの交わりを続けるために、しばしば夕闇に乗じ女装してアテナイへ潜入するような冒険をあえてしたと� ��われ、またソクラテスの臨終にも居合わせたといわれている。したがって彼はプラトンより年上で、かつ古いソクラテスの弟子だということになる。ソクラテスの弟子たちがアテナイを見捨てたのは、その師と同様の運命がみずからにも及ばんことを恐れたがためであったと伝えられている。師の死とともに、プラトンの遍歴時代ははじまったわけだ。

その後彼は数学者テオドロスを訪ねてアフリカのキュレネに行き、さらにピュタゴラス派の哲学者ピロラオスやエウリュトスを訪ね南イタリアに、さらに予言者を訪ねエジプトへ...更に遠くマゴイ―ペルシアのいわば神官―にきくためにペルシアに足を伸ばすつもりだったが戦争にさまたげられアテナイにかえってきたという。...ただ、彼自身の言葉から見て確実だと思わ� ��るのは南イタリアとシケリアへの旅行だけである。...南イタリアから彼は海峡を渡ってシケリア島へ赴いた。シケリアのおいしいご馳走を食いに行っただけと非難するものもあれば、...エトナ火山見物、あるいはヂオニュシオス王に交わりを強制されて行ったといっているものもある。それはともかくこの地で、彼は僭主の義弟で当時まだ20歳ばかりのヂオンと深い友情を結んだ。あるいは恋仲になったという。以後プラトンは彼が不慮の死をとげるまで少しも変らない交わりを続けた。...

しかし傲慢な僭主とは、公明正大で率直なこの哲学者はうまくいくはずがなかった。プラトンはこの僭主と僭主政治について対話をし「ただ優者たる僭主の利益のみが最高の目的ではない。ただし彼が徳においてもすぐれたもの� ��ら、話は別だが」と主張し彼と言い争った。僭主ヂオニュシオスは怒って「お前の議論は年寄りくさい」と言ったのでプラトンは「あなたの議論は僭主くさい」と応じた。そのためにヂオニュシオスは彼を殺そうとしたがヂオンやアリストメネスに諫止せられて、ちょうどそのときスパルタの使節としてその地にあったポリスに託して...アイギナ島の奴隷市場に連れて行って売り物に出した。そのときアイギナとアテナイは戦争中だったので、カルマンドロスは『アテナイ人たちのうち最初にこの島へ上陸したものは裁判に付することなく直ちに死刑に処す」という法律に従ってプラトンに死刑を宣告した。するとある男がプラトンとは知らず冗談にこの罪人は哲学者だといったので許されたという。...さいわいそこにキュレネ� �アンニケリスが居合わせてプラトンを20ムナで買い取って自由の身とし、アテナイの仲間のところへ遣った。...仲間たちはすぐにそのお金を送ったが彼は「あの人らだけがプラトンの心配をする値打ちのあるものじゃない」と受け取らなかったそうだ。...

...ヂオニュシオスも心安らかではなかったが、このポルリスの非業の最期を聞くとプラトンに手紙を送って、どうか自分を悪く思わないようにと懇願した。すると、プラトンは忙しくてヂオニュシオスのことなど気にかけている閑はないと、言ってやった。
さて、アテナイに帰ってくると、プラトンはアカデメイアにおいて学校を開いた。この場所は神雄アカデモスにちなんで名づけられた森の中にある城外の体育場であった。それ、この地図を見て御覧、このアテナイ市の北西にあるヂピュロン門から少し行ったところにあるだろう。6スタヂオンというから足取りにして三千六、七百歩というところだろう。


ミノアは礼拝のために何を使用しました

さて、この学校は紀元後525年ローマ皇帝ユスチニアヌスによって閉鎖を命じられるまで900年以上も継続した。今日大学や学術研究所のことなどをアカデミーと言うことがあるね、これはプラトンの学校の名にあやかったわけだ。ここでプラトンはわれわれの勉強しているような哲学以外に、法律学や数学や星学や自然科学などをその弟子であるとともにまた友人でもある人々といっしょに研究したり教授したりした。ときには師ソクラテスのように対話の形式を、ときには連続的な講義の形式を用いた。一度アテナイの港町ペイライエウスで講演を開いたさいアテナイや田舎からたくさんな人が押しかけてきたが、善の説を述べるにいたったとき皆は立 ち去ってしまった、ということだ。

プラトンは単に学問ばかりを教えたのではない。その弟子たちの人格教育にも重きをおいたのだ。彼が学校の保護神ミューズの祝祭を兼ねて、月に一回弟子たちと食をともにしたというのもこのためだろう。それは彼がソクラテスに傾倒した弟子であったことや、ソフィストを金儲け主義の小商人と非難したことから容易に想像がつく。しかし富裕な弟子や友人たちからの好意の贈り物まで辞退することはなかったろう。
プラトンは若いころにはその家柄にもふさわしく多くの青年と同じように政治家になる考えだった。その機会もあった。しかし政治家のやり口を見て彼らのあいだに伍して政治をやる興味をなくしていった。おもいがけなく師ソクラテスが不当に処刑させられてからはまったくその望みを捨ててしまった。政治そのものに対する興味を失ったのではない。彼は絶えず、どうすれば現在の国家組織は改善されるか、どういう国家が最上のものであるかに思いをこらした。

そしてこれは諸君も知っていることだが、
「もし哲学者が国家において王となるか、あるいはいわゆる現今の王や権力者たちが本当に、かつ十分に哲学するかして、国家の権力と哲学とが一つに落ち合わなければ、国家にとっても、否、人類にとっても禍の止むことはない」という確信を抱くに至った。したがってその弟子たちを教育するにも、この確信を持ってしたにちがいない。あるいは時節到来の暁にはこれらの弟子を率いて、みずから政治をなす希望をもっていたのかもしれない。とにかく彼の門下からは後の立派な政治家や立法家が出ている。

...ついに時機は到来したかのように見えた。第一回のシケリア旅行から約20年め、愛弟子のヂオンは手紙で、ヂオニュシオス第1世が死んであとを継いだ若いヂオニュシオス2世は哲学に大変興味を持っているから� ��あなたの理想を実現するには好適の時機だ、早速出かけて欲しいというようなことを言ってよこした。プラトンは若い者の移り気なことや後に残していく弟子たちのことを心配しながらも、ヂオンとの友情を思い日ごろの自分の言説にも顧み、成功の場合の影響の大きさなども考えて、ついに意を決し60余歳の老躯を引っさげてシケリアにへ出かけていた。...

いままでのぜいたくな饗宴は控えめになり宮廷の様子はうって変わり万事につけて王は親切になった。それらのことは国民たちに明日の日の幸福を思わせ、全ての人のうちに学問や哲学に対する熱情が喚起され、王宮は、幾何の図形をまかれた砂の上に描くものが多いために砂塵によって満たされるほどであった。...しかし、そのうちにヂオンの反対党が彼に対し� ��いろいろよからぬデマを飛ばし始め、若い王もつらい勉強に飽きてきた。ヂオンに対して嫉妬すら感じるようになった。ちょうどこうしたおりもおり、ヂオンがカルケドンの全権委員にあてて、ヂオニュシオスと平和について商議しようするかぎり自分をぬきにしては決して成功する見込みがない旨を述べた手紙がヂオンの反対党の首領のピリステスの手で王に届けられた。王は怒ってヂオンを国外に追放した。...プラトンも城中に移された。王が、プラトンをめぐるヂオンの一党の反乱をおそれ、かつプラトンの帰国を妨げるためであった。しかし、そうこうするうちにシケリアと南イタリアのルカニアとのあいだに戦争が始まったので、プラトンのことなどにかまっておれず、帰国願いを許した。...


帰国後プラトンはアカデメイアにおいて、弟子の教育と対話編の著述とに専念するうち5年の歳月が流れた。国を追われたヂオンもアテナイにあって、プラトンやその他の弟子たちと深い友情を結んだ。また、ときには諸都市を訪問して知名の士や政治家などとの談話を楽しみながら、皆の敬愛と同情とを集めた。それがヂオニュシオスの心を不安にした。彼を呼び返すことは段々危険に思えてきた。一方ではプラトンとの交遊を新たにしたいという気持ちも強くなっていった。彼の哲学に対する興味はプラトンを失って、ようやく強くなったのである。...プラトンはことわった。王はプラトンの意を迎えるために三段櫂船を送った。これは昔の軍艦なんだ。最高の礼を尽くしたことにな� ��だろう。使者はアルキュタスの友人アルケデモスやその他のプラトンの知人たちであった。...ついに意を決して、「三度スキュルラの海峡に、」すなわちメスセネ海峡へ赴いたのであった。

彼を喜び迎えたのはヂオニュシオスのみではなかった。シケリア全島の希望は一にこの老哲学者の到着にかかっていた。彼らはプラトンがピリトリスを、哲学が僭主政治を打ち負かすことを願っていたのだ。...やがてプラトンとヂオニュシオスとはまた、仲たがいをした。ヂオニュシオスはヂオンへの送金を禁じたばかりかその財産を没収してしまったのだ。プラトンも敵意にみちた傭兵の監視下におかれた。...アルキュタスは驚いて即刻30櫂の飛脚船と使節をよこして、王に彼の身柄を要求して連れ帰った。別れにあたってヂ� ��ニュシオスは「今度という今度は、あなたの友人たちのところで私を罵倒するでしょうね」と言ったら、プラトンは「いや、アカデメイアでは、学問の種に事欠いて君を話題にしなければならぬようなことは決してあるまい」と答えた。

紀元前360年春のことである。プラトンはタラスにしばらく滞在して後、オリュンピアに赴いた。8月の祭礼でちょうどヂオンが来合わせていた。プラトンから一部始終を聞くとヂオンは激昂して復讐を決意し、プラトンにも協力を願ったが、彼はその年輩でないこと、また争いを好まざることを述べ断った。その後数年を経ずしてヂオンは手兵を引っさげてシケリアへ渡りヂオニュシオスを追放して民主政治をしいたが、やがて、アカデメイアの同学であり革命の同士でもあったアテナイのカ� ��ッポスに刺されて非業の死を遂げた。その顛末についてはおもしろいので初めは詳しく話して聞かせるつもりだったが、だいぶ夜も更けたから、このぼくの訳した角川文庫のプラトン『書簡集』の解説のところを読んでくれたまえ。もちろん閑を作って本文のところも読んでくれれば、プラトンがさぞ喜ぶことだろう。...

さて、プラトンはアテナイに帰って後は、もはや政治には手を出さなかった。もう70近い年輩だったが、それでも弟子たちを教えたり、ものを書いたりしながら、北方に興隆したマケドニアのため騒がしくなってきた世間をよそに、静かに暮した。
キケロは、「プラトンは書きながら死んだ」と言っている。...

プラトンはアテナイに帰って後は、もはや政治には手を出さなかった。もう70近い年輩だったが、それでも弟子たちを教えたりものを書いたりしながら、北方に興隆したマケドニアのために騒がしくなってきた世間をよそに、静かに暮した。キケロは、「プラトンは書きながら死んだ」と言っている。...ときに紀元前347年、齢は80歳であった。時の英雄アケドニア王ピリッポスは彼の死に敬意を表したということだ。

...彼に贈られた詩というものを見てプラトンの話を打ち切ることにしよう。...

アリストテレスの作といわれる碑文―

クケロプスの 名高き土地に 上り来て
恐れかしこみ 聖なる愛の祭壇を 彼は築きぬ
この師の君を 称えつつ
悪しき輩の ほめるさえ 正しからぬは この師なり
人はあれども この師のみ あるいは他人にさきがけて
身もて 言もて 明らかに
善き人は 幸ある人に ほかならず
とぞ 訓えたまえり
今の世は この御訓えを 守りうる人
さらに なし


実際、プラトンは彼の言っているように「心の医者」といっていいだろう。彼はまた詩聖ホメロスと並べて、「この二つの魂はまったくの調和(ハルモニアー)」だったと言われている。この美しい魂を包むのにふさわしくプラトンの顔も身体もまた美しく丈夫であった。しかしその肩は怒り肩で、彼の崇拝者たちによって模倣されたという。声は細く、また慎み深くて哄笑するようなことはなかったということである。では、これでおしまいにしよう。
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トップ画像:
Plato. Luni marble, copy of the portrait made by Silanion ca. 370 BC for the Academia in Athens. From the sacred area in Largo Argentina, 1925.
Born c. 428–427 BC Athens  Died c. 348–347 BC (age approx 84) Athens

本文の内容(青字...は部分省略)は、以下からの引用によります。
「ギリシア・ローマ哲学者物語 山本光雄 講談社学術文庫 ISBN4-06-159618-7」



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