ヒトラーの政権獲得
ヴェルサイユ条約によってがんじがらめにされた敗戦国ドイツは、そのわずか6年後には、再びヨーロッパ最強の国へと返り咲きます。ヒトラーはどのようにして、政権を獲得し、ヴェルサイユ条約を無文化させいったのでしょうか、(ヴェルサイユ体制下のヨーロッパの項でも書きましたが、英国もフランスもヴェルサイユ体制を力ずくでも維持しようとする意気込みがなかった。)その過程をここでは書きます。 |
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独裁への道
ヒトラーが首相の座に着いた段階(1934年:昭和9年)で最大の関心事は、国内での独裁体制の確立と、失業問題の解決でした。そのため対外的には、反発を受けないようにメッセージを送っています。その内容は、 「ドイツ国政府は、いかなる国との、いかなる困難な問題についても、平和的に解決することを希望している。ヨーロッパでの軍事行動は、得られる利益より犠牲のほうがはるかに大きいことをドイツはよく承知している。」 しかし、その舌が乾かぬうちにラジオを通じて堂々と、国際連盟脱退を表明しました。 「いかなる対等の権利も与えられないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んずる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」 この 国際連盟脱退は、ヴェルサイユ体制を憎んでいたドイツ国民には大変好評でしたが、周辺諸国は単に「大変遺憾である」と述べたにとどまりました。ヒトラーにとって1934年は、「長いナイフの夜事件」によってナチ党突撃隊の粛清に成功したとともに、7月隣国オーストリアで、同地のナチ党が権力奪取を目指して独裁者のドルフス首相を暗殺する事件が発生しましたが、このときドルフス首相と仲の良いイタリアのムッソリーニが国境に軍隊を派遣したためオーストリアを併合しようとしたヒトラーの目論見はあえなくついえてしまいました。 反面ヒトラーはポーランドと不可侵条約締結に成功しました。このことによってヒトラーは二正面作戦を避けることができるようになりました。この二つのことから1934年(昭和9年)はヒトラ� �にとって外交面では、一進一退の年であったといえます。 |
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bullecourtの戦いの背景は何でしたか?
再軍備宣言
1937年(昭和12年)、年明け早々ヒトラーに吉報がもたらされました。それはフランスとの国境にあり、豊富な石炭資源に恵まれたザール地方で住民投票が行われ92パーセントの賛成でドイツに帰属することが決まりました。ザール地方はヴェルサイユ条約で15年間国際連盟が管理したあと住民投票でドイツに帰属するかフランスに帰属するかを決定することになっていました。このことは国際法上は何の問題もありませんでしたが、ドイツはすでに国際連盟を脱退していたので、フランスは投票を拒否することができたはずです。このことは結果的にフランスはヴェルサイユ条約守り、ヒトラーを利するだけの結果になってしまいました。 三月、ヒトラーは突然ラジオと、新聞を通じて、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項� �破棄、徴兵制の復活と空軍の保有を宣言しました。そして、参謀本部の名称を復活させ、ドイツ軍の呼称も「国軍」から「国防軍」(武装軍の意味)に変更させました。 このヒトラーの行動は、かねてからドイツの動きを懸念していた英・仏・伊の各国を刺激し、三国の首脳はイタリアのストレーザに集まって、ヴェルサイユ体制維持のための共同戦線を宣言しました(ストレーザ戦線)。さらにフランスはソ連及びチェコ=スロバキアと相互援助条約を結び軍事面を含めあらゆる協力をすることになりました。 これは一見すると、無計画に再軍備宣言をしたドイツは周辺諸国から孤立したように見えますが、周辺諸国の思惑はてんでばらばらでした。英国は、6月ドイツと単独で海軍協定を結び、艦艇については英国の35� �ーセント潜水艦は同等を保有することを認めました。これは、ヒトラーが英国のサイモン外相にかましたはったりが利いた結果でした。ヒトラーはサイモン外相に英国と同等の空軍を保有しているかのように言ってヒトラーの公言する「強大なドイツ空軍」の幻想の虜(とりこ)にしてしまったのです。ヒトラーはこのあとも何かにつけてはったりをかまして、外交交渉で英仏の譲歩を引き出すことに成功します。 当時の英・仏・伊の各国の立場はとても複雑でした。 英国は世界帝国の座は守りたい、国際連盟の主催者としてヴェルサイユ体制は維持したい、だが二度と戦争はご免だ、という考えでした。こうした矛盾した考えが英国人の中にありました。 フランスは、国内では、小党分立のために年中繰り返される政 変と左右両派の対立によって、分裂は深まる一方でした。またチェコ=スロヴァキアと同盟を結びましたがフランス軍部はとうの昔にドイツに対する攻勢戦略を放棄していました。それにくわえて、チェコ=スロヴァキアは、ソ連とも同盟を結びましたが、ソ連は当時チェコ=スロヴァアと国境を接していませんでした。 イタリアは、第一次大戦は連合国に属していましたので、政治上は戦勝国でしたが軍事面では完敗でした。そのためヴェルサイユ条約での収穫も期待通りの物ではなく、戦後の経済不況と社会不安とあいまって国内では不満がたまっていました。その中で、強い指導者としてムッソリーニが登場しました。 しかし、イタリアの軍事力に対して英仏は脅威に感じていなかったので、国際連盟の常任理事国にして� �ェルサイユ体制の中に取り込んでいました。 そのムッソリーニは、1934年末ごろからエチオピア征服を公言するようになります。1935年10月、ついにエチオピアに宣戦布告します。これに対して、イギリス世論はイタリアを非難し、国際連盟は満場一致でイタリアに対する経済制裁を決定します。 こうして、ドイツ包囲網と思われた「ストレーザ戦線」はもろくも崩壊しました。 |
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世界に何をしたレオン·トロツキーの贈り物
ヒトラー最大の賭け
各国の足並みの乱れを察知したヒトラーは、ヴェルサイユ条約で非武装中立地帯となっていた、ラインラントへ進駐することを決意します。しかし再軍備が始まったばかりのドイツ軍の実力は小さく、英国やフランスが報復措置に出るとひとたまりもない状態でした。しかし、フランスは何も行動を起こしませんでした。ヒトラーは大きな賭けに勝ったのです。このときの心境をヒトラーは側近によく話したそうです。その内容とは、 「ラインラント進駐後の四十八時間は、私の生涯で最も神経を痛めたときだった。もしフランスがラインラントに兵を進めたなら、わがほうは尻尾を巻いて撤退しなければならなかったろう。・・・私の不退転の頑張りと冷静さがドイツを救ったのだ」 ラインラント進駐後� �トラーは英国やフランスは弱腰なので、はったりをかまして脅せば英国やフランスは何もせず結局ドイツの行動を黙認することになると考えるようになりました。 ラインラント進駐時フランスが何も行動を起こさなかったのは、何度も書きましたが、国内の政情がとても不安定で外国に目を向ける余裕がなかったからです。 時を同じくして、スペインで人民戦線政府が登場します。すると、これに公然と反対するフランコ将軍と人民戦線との間で内戦が発生しました。(スペイン内戦)この内戦は、人民戦線をソ連が支援しフランコ将軍をドイツが支援したため丸四年にもわたる長期戦となりました。ドイツにとっては、フランコ将軍を支援することによって、貴重な実戦経験をつむことができました。ヒトラーはこの内戦に� �コンドル部隊」と呼ばれる空軍の部隊を派遣し、ゲルニカを爆撃し、ヨーロッパ中に都市爆撃の恐怖と都市爆撃に対しては手の打ちようがないとの認識をヨーロッパ中の人に印象図けることに成功しました。そして、この恐怖心をあおって周辺諸国に圧力をかける戦術をとるようになります。 |
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クリストファー·コロンブスディスカバーアメリカを行いました
ムッソリーニとの接近
政権奪取から4年で、ヒトラーはヴェルサイユ条約の規定を打破することに成功しました。残る問題は領土問題だけとなりました。ヒトラーは世界恐慌脱出と失業者救済を主眼とした第一次四カ年計画に変わって、第二次四カ年計画をゲーリングを全権委員としてスタートしました。 第二次四カ年計画は、軍需産業振興と、戦争遂行に必要な原料資源の自給率の向上に中心をおいた政策でした。その結果、人造石油と人造ゴムの自給を図ろうとしました。(結果的には、すべての需要を満たすにはいたらなかった) この年の外に目を向けてみると、周囲がヒトラーに優位に動いた年といえます。7月には日中戦争が勃発し、英国とソ連は大きく動きを制約されることになりました。 またソ連では、スターリン� �よる赤軍の大粛清が行われソ連軍の軍事力が大幅に低下しました。ひいては、ソ連の国際的な信用も失墜させる結果となりました。9月には、ムッソリーニが訪独してヒトラーと会談しました。ヒトラーはムッソリーニを国賓扱いで待遇しました。これに感激したムッソリーニはローマ=ベルリン枢軸を公言するほど親独的になりました。 11月のはじめヒトラーは軍の首脳と外相を密かに集め翌年から採る政策について明かしました。その内容は 「ドイツの将来は、必要なる空間の解決にかかっており、その空間は海外でなく、もっぱらヨーロッパに求めなくてはならない。そして確固とした、まとまった人種核を形成する。自給自足の経済のなかで原料資源は何とか解決できるが、食料の点では無理である。ドイツの問� ��解決のためには実力行使あるのみ。・・・問題はことを起こす「時期」と「方法」である。第一の想定は、ドイツ陸海空軍の軍備が最良となる1943年から1945年である。ただし、フランスの国内事情が緊迫して仏軍が対独戦に立ち向かえない、または他の国と戦争になった場合、ドイツの行動はもっと早まる。このような情勢の好機があれば、オーストリアとチェコ=スロヴァキアを打倒する。」 この想定はあくまでも将来的な目標ぐらいのものでした。しかし、現実の国際情勢は、ヒトラーの予想を超えて実現していくのでした。 |
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オーストリア併合
出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz
1938年(昭和13年)の年明け早々、ヒトラーはみずから国防軍最高司令官に就任して三軍に直接命令できる体制を整えるため、奇妙な性的スキャンダルを捏造して国防軍の大幅な人事異動を行いました。 二月半ばには、オーストリアのシュシュニッグ首相を山荘に呼び、ドイツ・オーストリア両国間の懸案について会談しました。このときヒトラーは軍事的行動をちらつかせてシュシュニッグ首相を脅迫します。シュシュニッグ首相が、帰国したあとも、架空の軍事命令を発令して国境に軍隊を集めて、圧力をかけ続けます。そして、シュシュニッグ首相が、蜂の巣をつついたような騒ぎになったオーストリア国内を安定させるために、オーストリアの独立を問う国民投票の実施を宣言すると、オーストリア侵攻作戦� �オットー」を発令して、3月22日、ドイツ軍部隊は住民の大歓迎のうちにオーストリア併合に成功してしまいます。オーストリアとドイツの併合は、ドイツ民族の長年の悲願でしたが、これは明白なヴェルサイユ条約違反でした。しかし、英仏両国は、抗議はしましたが、直接的な行動には打って出ませんでした。この英仏両国のドイツに対する弱腰の姿勢は、ヒトラーに完全に読まれていました。 |
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ズデーデン地方併合
出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz
オーストリア併合に成功すると、ヒトラーは事前の計画にもとづいてこんどは、チェコ併合に動き出します。4月には作戦名「緑の場合」(チェコへ侵攻作戦)が、作成され軍に指示が出されました。 チェコ=スロヴァキアは、第一次大戦後戦勝国側の判断で無理やり同じ国にされていただけで、人為的な国家でした。とくにチェコは神聖ローマ帝国の中心として、多くのドイツ系住民が住んでいました。これをズデーデン・ドイツ人と呼び、オーストリアがドイツに併合されると、この地域に住んでいるドイツ系住民たちが突然ドイツに帰属する運動を始めます。これをドイツは間接的に支援し、宣伝大臣のゲッペルスが「圧迫されているズデーテンのドイツ人同胞」という宣伝を流しました。しかし、チ� �コ=スロヴァキアは小国ですが侮りがたい軍事力と堅固な国境要塞群を持ち、フランス・ソ連と相互援助条約を結んでいました。 このため、ヒトラーは演説で恫喝を繰り返すとともにチェコ=スロヴァキアのベネシュ大統領個人を攻撃しました。「ズデーテン地方のドイツ系住民たちの独立をかたくなに拒否している」と国際的世論に訴えるためです。さらに、チェコの頑固さにほかの国が巻き込まれることを恐れていることに目をつけ戦争の恐怖を演説であおり英仏の妥協を引き出すことに成功します。これが、「ミュンヘン会談」です。戦争を恐れる英仏に対してその足元を見てヒトラーは、ほぼ全面的に主張を受けいれさせます。これによってズデーテン地方はドイツに割譲されハンガリーとポーランドにも領土を割譲さ れ、ソ連・フランスと結んでいた相互援助条約も解消されます。このときドイツは、チェコ一国と戦争するだけの軍備さえも保有していなかったのにもかかわらず、ヒトラーの巧妙な演技によってまんまとズデーテン地方割譲に成功しました。 |
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チェコ=スロヴァキア併合
ヒトラーはズデーテン地方割譲に成功して、「英仏は弱腰だ強行に自分の意見を言えば最後は妥協する」と考えるようになり、ミュンヘン会談で結ばれたミュンヘン協定をあっさり反故にし、チェコ=スロヴァキア併合に乗り出します。このときも、ズデーテン地方割譲のときに使ったのと同じ方法で、チェコ=スロヴァキア大統領ハーハを恫喝しついにチェコ=スロヴァキアを併合してしまいます(併合後ベーメン・メーレン保護領)。しかしこのことは、ドイツ人以外の民族を支配下に置いたこととミュンヘン協定を反故にしたことによって、英国の世論を一気に硬化させることになりました。いままで、対ドイツ宥和政策を採っていたチェンバレン首相までも、対ドイツ強硬政策に変化させることになりま� �た。 ヒトラーは丸一年の間に二つの独立国を消滅させ、ドイツの領土・資源・人口・工業を大幅に拡大させました。しかしこのことは、ヒトラーは気づいていませんでしたが、チェコ=スロヴァキアの併合は後戻りできないところに来てしまっていたのです。 |
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第二次世界大戦勃発
出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz
チェコ=スロヴァキア併合の後、ヒトラーはすぐに次のターゲットをポーランドに向けました。ポーランドは第一次大戦後ヴェルサイユ条約によって独立を許されるとともに、ドイツから多くの領土を得ていました。また、歴史的にドイツ民族が多く住む、ダンツィヒ市は国際自由都市として国際連盟の管理下に置かれ、ドイツ領東プロイセンは飛び地となっていました。ドイツ人の間には、ポーランドに対する反感と失地回復の念は強くありました。このことを利用し、ヒトラーはチェコ=スロヴァキア併合のときに使ったのと同じ手を使い、ポーランドを恐喝します。しかし、ポーランドもチェコ=スロヴァキアの二の舞にならないよう強固に反対します。そして、英国も1939年(昭和14年)3月30日ポーランドへの独立保� ��を宣言するという強硬姿勢に出ます。ヒトラーはイタリアと軍事同盟を結ぶとともに開戦のタイムリミットを9月1日とし、ポーランドを激しく恫喝します。しかし、ポーランドもヒトラーの恫喝ははったりと見抜いて、英仏の支援を後ろ盾に強固に抵抗します。 そこでヒトラーは、8月23日ソ連と電撃的に不可侵条約を結びます。こうしてポーランドを東西から挟み撃ちにし孤立させようとします。しかし、ポーランドは結局譲歩せず、9月1日ドイツの放送局がポーランドに攻撃された(ドイツ側が開戦の口実のために行った謀略)との理由で、ポーランドに宣戦布告します。その48時間後英仏はドイツに戦線を布告し、ついに第二次世界大戦が勃発したのでした。しかし、ヒトラーの読み通り英仏は、宣戦布告したものの大きな行動を 起こさず事態を静観していました。こうして二週間でポーランドはドイツとソ連に二分割され消滅します。 ドイツは領土をまたしても拡張しました。しかし、ソ連をヨーロッパに引き込み英仏と戦争状態になってしまいました。ドイツが二正面作戦を防ぐためにはソ連の気分しだいとなり、国防上大きな懸案ができてしまったのです。 |
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