2012年5月4日金曜日

2012/2 説教


2012/2/26 「信仰の中心点」       聖書:創世記 15章1〜21節    説教:  これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」
アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。 しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。 あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」


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    神様はアブラハムに子を与えるといわれます。彼も妻の体もその時はすでに枯れていました。神様は彼を天幕の外へ連れだして言われます。
「『天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる。』アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」

アブラハムに満天の星は数えられません。神の圧倒的な御手の業を見せられて神の約束を信じたのです。これが信仰です。自分の可能性を信じることは信仰ではありません。「希望するすべもなかった時に、なおもの望みを抱いて信じる」(ローマ4:18)ことなのです。神様を神様と信じることなのです。
 
私達は報酬の世界に住んでいます。自分が何をしたかで結果を刈り取る世界です。自力更正ですし、行為義認の世� ��です。聖書は違う世界を指し示しています。働きはなくても義(よし)とされる世界、信仰義認、恵の世界です(ローマ4:1-5)。私が何をしたかで報われるのではなく、神様が私のために何をして下さったかを信じる世界です。自分は少しも手を貸さず、自分の知らないところで神様は御子を遣わして救いの業を全うして下さったその愛と赦しを信じて歩める恵の世界です。これが聖書の信仰です。アブラハムはこれを明らかにしました。  

そうでなければ、神様の愛を信じるだけでよいのでなければ、自分の可能性やしたことだけが問題になるのだとしたら、自分で良いことが出来なくなり、私たちから何もかもを奪う死を目の前にした時、一体どうしたらいいのでしょう


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2012/2/19 「この人は救い主か」      聖書:ヨハネによる福音書 7章25〜36節    説教:   さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

   仮庵祭でユダヤ人たちは、イエス様からイエス様を何者と考えるかを問われたのでした。

一体人は神様の言葉を聞けるのでしようか。人は言われたように聞くのでなく、聞きたいように聞くのです。ユダヤ人たちは信仰についての知識が邪魔をして、そして何より自分を固く守り続けるために、ありのままのイエス様の言葉が聞けません。怒ってイエス様を捕らえようとしますし、1年後にはとらえて十字架につけました。


ヨルバ族はどこにあるのでしょうか?

「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。…わたしのいるところにあなたたちは来ることが出来ない」
イエス様はこれまで、どこから来たかは語られましたが、ここで初めてどこへ行くかを語られます。ユダヤ人達は、ギリシャ人の所へでも行くのかと考えてしまいますが。
 最後の晩餐の席では「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ…行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとへ迎える」(14:1ー3)と言われます。イエス様の十字架の死は、わたしたちの罪の赦しのためであると共に、天の住まいを用意するた めのものでもあったのです。

イエス様は、時には声を荒げ、また謎めいた言い方で、これでも私が分からないかと言われます。今日の箇所も十字架と復活の光の中でその意味がはっきりします。


 2012/2/12 「神の時と御心に生きる」      聖書:ヨハネによる福音書 7章1〜24節    説教:  その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。


祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

[仮庵祭ーかりいおさい]
 ユダヤ教の三大祭りの一つ。太陽歴の10月初旬ころ8日間 行われる。イスラエルの民がエジプトを脱出して40年、天幕によって荒野を旅したことを記念して、仮庵を造って祭りをした 。秋の収穫祭

   ヨハネによる福音書は7章と8章を用いて仮庵祭でのイエス様の様子と言葉を伝えます。

兄弟たちは、イエス様がなぜ祭りに行って自分を皆に現わさないかを問います。イエス様は言われます。「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしは…行かない。まだわたしの時が来ていないからである」
 兄弟たちは自分の思い通りに行動します。しかし、イエス様は神様の時に生きます。神の御心に生きるとは、神の時に生きることでもあるのです。

「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。…自分勝手に話すものは、自分の栄光を求める」
 人はその行動が神様に従っているかどうかは、外からは分かりません。その人の心の一番深いところで、その心にやましさやさもしさ� ��ないか、不義が無いかどうかです。自分の栄光を求めているのか神の栄光を求めているのかが問われます。

 信仰に生きるとは、神様の時とお心に生きることです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」 これを伝えるために、ヨハネの福音書は書かれました。イエス様は神様の時に生き、その御心に生きたことで、私たちを神様の愛と生命に結びつけて下さいました。ですから私たちも、苦しくはあっても安心して神様の時を待ち、つらくはあってもお心に従って生きれば、決して間違はないのです。

 



 2012/2/5 「永遠の命の言葉」   聖書:ヨハネによる福音書 6章60〜71節   説教: ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

  「あなた方も離れて行きたいか」「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」

五つのパンと二匹の魚で食事を与えられた群衆はイエス様の後を慕いますが、「わたしが天からのパンである」「わたしの肉を食べ、血を飲まなければあなた方の内に命はない」との言葉を聞くと、イエス様のもとを去りました。無理のないことかもしれませんが、それが聖餐であることが分からなかったのです。聖餐が隠されているとしても「食べる」という仕方でイエス様との命の関係にはいることが分からなかったのです。

人を生かすのは、最後は「言葉」です。物ではありません。言葉は人を生かしもしますが、殺しもします� �
人を生かす「命の言葉」とは、その人を丸ごと受け止め、生きる勇気を与えるものです。どんなに正しい言葉であっても人格を否定するものは人を殺します。

イエス様の言葉は、地上で人を生かしても死で終わってしまうものではなく、永遠の命の言葉です。永遠の命の言葉を聞くとは、イエス様の肉を食べ、血を飲む(聖餐)という仕方でイエス様が私の内に住み、私もイエス様の内に生きる。「わが愛に居れ」「われに委ねよ」「われに従え」というイエス様に生きることです。



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