鎌ケ谷市役所【市の歴史】
かまがやに人類が住み始めたのは、今から23,000年前の先土器時代。あたりには草原が広がり、ナウマン象やオオツノシカが群れていたらしいね。
どうして、住みはじめた時期がわかったの?
その当時の暮らしは、東林跡(第五中学校のプールのあるところ)から発掘された道具や住居の跡などから知ることができるんだよ。
ほかにはどんな遺跡があるの?
縄文時代の遺跡には、大堀込遺跡や根郷貝塚、中沢貝塚などがあって、竪穴式住居跡をはじめたくさんの土器や石器などが出土している。弥生時代の遺跡は、今のところ市内では発見されていないけど、古墳時代(4世紀〜7世紀)に入ると、再び人々の生活した跡が見られるようになる。一本松遺跡や猿根台遺跡などのように、中沢川を望む中沢地区に集中して生活していたようだね。
万福寺周辺の村は、特別な任務を与えられていたんだ
飛鳥時代の遺跡は発見されていないけど、奈良時代の人びとが生活した跡は、遠山遺跡(軽井沢地区)と大堀込遺跡(中沢地区)で見つかっている。
どんなものが見つかったの?
鎌やくぎ、刀子(ナイフ〉などの鉄器と朝鮮半島から伝わってきた須恵器(陶器質の土器)、住居跡からは、かまどが発見されたんだ。
平安時代の遺跡も第四中学校(中沢地区)から万福寺にかけてたくさん見つかっている。とくに第四中学校の裏側にある双賀辺田遺跡からは、住居跡17軒、高床式建物跡14軒をはじめ、墨書土器など数々の貴重な遺物が発見されている。高価な帯金具などがあったので特別な任務をもっていた村だったらしい。
鎌倉時代に下総国を支配していたのは千葉という名前の人
鎌倉時代、房総は武家政権の後背地として重要な地域だったんだ。房総に力をもっていた千葉氏は、千葉常胤のとき、領地を6人の子どもに分けたんだよ。下総国相馬郡を支配していたのが千葉師常(相馬次郎)で、相馬郡は現在の我孫子市、柏市の一部、沼南町、鎌ケ谷市の北部のあたりだね。
どうしてそういうことがわかったの?
文永9年(1272)の「関東下知状」に薩摩(現・佐津間)と粟野は相馬氏の領地だったことが記されているんだ。
板碑でわかった信仰
鎌倉時代の終わりから室町時代にかけて、中沢の万福寺境内には、板碑(石製の塔婆)を建てた墓がつくられた。板碑は全国に広まったんだ。信仰の違いにより種子板碑(浄土教系)、題目板碑(日蓮宗)などの種類があるんだよ。
鎌ケ谷に住んでいた人は、どんな宗教を信仰していたの?
万福寺境内から発見された板碑は、弘安7年(1284)の種子板碑がもっとも古く、後に題目板碑も見られることから、浄土教系から日蓮宗へ改宗していることがわかる。でも佐津間や鎌ケ谷などのように改宗しなかった地域もあったんだ。
どのような銃は内戦で使用されていた
室町時代のことをもっと知りたいな。
室町時代の市城のようすを知る史料に、日蓮宗本土寺(松戸)の過去帳がある。過去帳というのは、信者の法名や俗名、命日を記したもので、佐津間、道野辺、中沢という村名が12例も書かれているんだよ。
この中に「妙性尼 日福取母 中沢」と記された人がいて、この人は本土寺八世・日福聖人の産婆役を務めた女性だったんだ。
こうしたことから、15世紀の中ごろにはすでに村々には、本土寺系の日蓮宗を信仰する人々がいたことがわかるね。
鎌ケ谷にもお城があったんだよ
現在、千葉県内には約560カ所の中世の城跡が発見されているけど、鎌ケ谷市内にも佐津間にお城の跡が残っている。
どんなお城だったの?
佐津間城は、東武野田線六実駅の北東、約500m、大津川の低地を東に望む標高約25mの台地の先にあるんだ。東西約80m、南北約300mの大きさの平山城(平地につくられた城)なんだよ。
だれが住んでいたの?
城主はわかっていないけど、当時の佐津間は相馬氏の領地だったので、相馬氏に関係の探い人物だと思うんだ。
中沢城というお城もあったらしいよ。中沢城の場所は候補が2カ所あって、ひとつは道野辺東城・西城、もうひとつは中沢根郷というところ。現在のところ、場所は確定されていないんだ。
徳川家康の旗本、原田勘兵衛が住んでいた
江戸時代、徳川家康の旗本(小姓)を務めた原田勘兵衛は、元和2年(1616)に2代将軍・秀忠から300石の土地を与えられた。そのなかに、中沢村があったんだよ。
その後、勘兵衛は大番という職につき、将軍の身辺警護を務める。寛永10年(1633)には大番の組頭に出世し、寛永13年には下総国内の香取郡と匝瑳郡の土地500石が加増された。
勘兵衛の死後も中沢村は子孫に引き継がれたんだけど、元禄11年(1698)になると、幕府の政策によって原田氏の領地はすべて下総国の香取郡内に移されたんだ。これで83年間続いた支配は終わり、幕府の支配地から間もなく大名・本多家の土地になったんだよ。
駿河国・田中藩の飛び地
鎌ケ谷市をはじめ、柏市、我孫子市、松戸市、野田市、市川市、沼南町の範囲には、1万石にのぼる駿河国田中藩の飛び地があったんだ.藩主の本多氏は、江戸時代初期から下総国とかかわりをもち、元和2年(1616)には、道野辺村、粟野村、佐津間村の3村を支配していた。その後、元禄11年(1698)には中沢村も本多氏の領地になり、下総国1万石の支配は、幕末まで続いたんだよ。
飛び地でなにをしていたの?
下総国の飛び地は、本多氏にとって江戸の台所の役割を果たしていたんだ。参勤交代のため、本多氏は生涯の半分を江戸で暮らさなければならない。だから江戸での生活費も多額になる。生活費を補うために下総国の飛び地からの年貢米が充てられたんだよ。年頁米以外にも、薪や藁、筵、竹など20数種の上納品が納められていたらしいね。
どのような布はどこに原住民を行う
木下街道で魚を江戸に運んでいた
現在の主要地方道市川印西線は江戸時代には「木下道」よばれ、行徳や八幡(市川市)と木下(印西市)を結ぶ重要な脇往還だった。この街道は木下から鹿島や銚子へと続いているため「鹿島道」・「銚子道」、また銚子や鹿島難でとれた鮮魚を江戸・日本橋まで運ぶルートだったので、「鮮魚道」などとも呼ばれていたんだよ。
へえ〜、たいへんだったんだね。
鎌ケ谷村は街道の要衝にあたり、利根川の水運が盛んになるにつれ、街道の往来も増加ししだいに宿場として整備されていったんだ。宿と呼ばれるのは木下街道沿いの大仏十字路から延命寺までの範囲で、最盛期には、問屋が1軒、旅籠屋が7軒あった。
その当時の建物などは残っていないの?
現在、宿場の面影はほとんどないけど、宿の北側の外れにある鎌ケ谷大仏だけが、いまも変わらずその姿を見せてるよ。この大仏は、安永5年(1776)に鎌ケ谷村の商人・大黒屋文右衛門が、先祖供養のためにつくらせたもので、開眼供養のときの盛大なようすは「つぼには白銀、お平に黄金、皿にゃ小判でとどめさす」という唄になったほどなんだよ。
ずいぶんにぎやかだったんだね。どんな人が通ったの?
鎌ケ谷宿には、たくさんの文人墨客がきてたんだ。貞享4年(1687)年には、松尾芭焦が「鹿島紀行」の旅の途中に通ったんだよ。
文政8年(1825)には、江戸時代の画家として著名な渡辺華山が利根川を旅したときに宿を通り、画集「四州真景図」に釜原の絵を描いている。天保9年(1838)には、香取地方で農村改良を指導した大原幽学が旅籠屋「丸屋」に宿泊したことを自著「性学日記」に書いているよ。
草莽の志士・渋谷総司生まれる
幕末になると各地に草莽の諸隊(集まり)ができた。倒幕運動に参加した地方の豪農や豪商出身者は、「草むらの中から生まれた志士」という意味から草莽と呼ばれたんだ。
名の知れた草莽の諸隊「赤報隊」の幹部だったのが、佐津間出身の渋谷総司だったんだ。
総司ってどんな人だったの?
渋谷総司は、佐津間村の名主を代々務めた渋谷家の次男として、弘化3年(1846)に生まれた。その当時はすでに徳川幕府の支配がゆるみ、地域の治安や秩序が悪化していたんだ。
幕末の騒然とした世情の中で育った総司は、諸国を巡って尊皇攘夷派の志士と交わることになる。
いくつのとき、運動に参加したの?
慶応3年(1867)秋、薩摩藩江戸屋敷を拠点に浪士隊が結成されると、総司はこれに参加し江戸府中のかく乱に従事した。21歳のときだったんだよ。
翌4年、鳥羽・伏見の戦いの後、倒幕軍の先鋒として総裁の相楽総三を中心とする「赤報隊」が結成されると、総司は幹部として参加。
赤報隊は年貢半減の布告を出すなど庶民の心をつかみ、官軍の進軍にあたって大きな貢献をしたんだけど、同4年3月3日、偽官軍として処刑されてしまったんだ。
かわいそうにね。
意志あるところに引用符が、方法があります
慶応4年4月、江戸城は無血開城されたけど、これに不満をもつ旧幕臣は各地で抵抗を繰り広げたんだ。
市川・船橋付近では、撤兵隊と呼ばれる旧幕軍と新政府軍が衝突し、鎌ケ谷大新田付近の戦闘で新政府軍側の佐土原藩(現・宮崎県)の藩士2名が戦死。後年、この2名の墓が千葉県によって建てられ、大仏墓地に残っている。
初富の開墾は失業者対策だった
明治になってから、世の中はどうなっていったの?
明治維新後、世の中は大きく変わっていくけど、新政府の緊急課題は、東京にいる失業者や生活に困っていた武士の救済だった。下総の小金牧と佐倉牧の利用を検討中だった新政府は、この地の開墾にこれらの人たちを従事させることで解決を図ろうとしたんだよ。
働く場所をつくったんだね。
開墾の中心人物は、政府から20万両の出資を受けた三井八郎右衛門(後の三井財閥)。三井氏は豪商135人を選び開墾会社をつくった。
開墾は明治2年(1869)、初富の入植から開始された。初富の名は、最初に入植が行わたのを記念して付けられたもの。その後、入植順に二和、三咲、豊四季・‥と名づけられていくんだ。
たいへんな作業だったんだろうな?
開墾作業は原野を畑にする作業だけど、農具も不充分なうえ、入植者も不慣れで、作業は遅々として進まなかったようだ。また土地もやせていて、あまり収穫はなかったようだね。
北初富の光円寺には、開墾に従事した苦しい生活をしのんで、その子孫が大正7年(1918)に建てた土地紀念講碑が残されているから見に行ってごらん。
鎌ケ谷村の誕生
鎌ケ谷っていつできたの?
明治5年(1872)の戸籍法の制定によって千葉県は16の大区と90の小区に編成された。各大区・小区には、扱所(役所)が置かれ、区長・戸長が選ばれたんだ
明治11年(1878)、郡区町村編制法によって大区・小区制が廃止されると、新たに郡役所と数町村を単位にひとつずつ戸長役場が置かれるようになるんだよ。
役場ってずいぶん前からあったんだね。
そうだね。町村制は明治22年(1889)の大日本帝国憲法の発布に伴って実施されたんだ。千葉県の方針は、資力の乏しい町村を合併、300戸以上の単位を基準にして新しい村をつくるというものたった。
この方針のもとで、佐津間・粟野・初富・鎌ケ谷・道野辺・中沢に、印旛郡根村から軽井沢を加え、合計七つの地区を合わせて新しく鎌ケ谷村が誕生した。村名は宿場があったために知名度の良かった鎌ケ谷村を使うことになったんだよ。
村役場は木下街道沿い(現・鎌ケ谷三丁目410)に置かれ、平屋建てで15坪の大きさだというから、ちょうど学校の教室ぐらいの広さだね。
教師一人だけの鎌ケ谷小学枚
近代国家をめざすためには、「国民皆学」が必要との考えから、明治政府は明治5年(1872)に学制を発布した。鎌ケ谷村では、明治7年(1874)1月に鎌ケ谷清長庵を仮校舎として鎌ケ谷小学校ができたんだ。男子28名、女子16名の児童と男性教師が一人だけだったんだよ。
同年2月には妙蓮寺に道野辺簡易科学校、明治13年(1880)には、中沢万福寺に大野小学校中沢分校、16年には初富に湯浅里小学校、17年には粟野に香津野小学校が設立された。
太平、真鍮、大古河、晩六梨の栽培はじまる
明治27年(1894)の日清戦争と37年(1904)の日露戦争を契機に、農村地域はずいぶん変わってくるんだ。食料不足解消のために農村地では穀物や野菜、果物の増産を図るために耕地整理事業が積極的に推進される。東葛飾郡にも15の耕地整理組合が組織され、鎌ケ谷村はそのなかでも最大規模を誇った八幡町外九ケ町村組合に属していたんだ。
梨の栽培もそのころから?
現在、鎌ケ谷市で第一の栽培品種である梨づくりの基礎はこの時期にできたんだよ。明治34年(1901)に鎌ケ谷村役場が郡役場に報告した書類によると、当時の耕地面積は5町9反(5.9ヘクタール)、栽培戸数27戸ということなので栽培地域はまだ一部だったようだけどね。品種は太平、真鍮、大古河、晩六梨などで、価格は10貫(37・5kg)につき1円ぐらいが相場だった。
いろいろな種類があったんだね。
大正時代になり長十郎が導入されると、収穫量が徐々に増加してくるんだ。その後、梨栽培は太平洋戦争で一時衰退するんだけど、三水(新水・幸水・豊水)の普及や耕地面積が拡大されて、いまでは栽培は鎌ケ谷市の主要産業になってるんだ。
村から町へ、そして市へ
昭和27年の町村合併促進法により、鎌ケ谷村周辺の町村も再編成が進められる。
昭和33年、鎌ケ谷村は町の標準人口8,000人を超えていたこともあり、周辺の村々との合併もなく町制が施行された。町制施行時の人口は1万1498人、世帯数は2252戸だったんだ。その鎌ケ谷町は東京近郊ということもあり、昭和40年には人口40,000人を超えるまちに発展する。
市になったのはいつなの?
昭和45年3月、地方自治法の一部が改正され、それまで市となるために必要だった人口5万人以上という条件が、都市としての要件を満たしていれば3万人以上でもよいことになったんだ。
この法律は特例法であるとともに、昭和45年3月から47年3月までの時限立法だったので、鎌ケ谷町ではさっそく「市制準備委員会」を設立し、市制施行のための準備に入った。
大忙しだったんだね。
そして昭和46年9月1日、千葉県では24番目の市として、鎌ケ谷市が誕生した。市制施行時の人口は4万4760人、地帯数は1万2176戸だったんだよ。市制の施行により行政規模が拡大、合わせて大都市近郊の住宅都市として年を追うごとに人口も飛躍的に伸び、平成3年6月には人口9万6079人、世帯数2万9737戸という規模にまで発展したんだ。
すごいや。20数年間で倍以上になったんだね。昔の人たちがいまの鎌ケ谷を見たら、なんて思うかな。
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